「いつも忘れちゃうのかしらん?」
その方は非同期コミュニケーションのメッセージアプリで呟いた。
たいせつな何かを、その眼に映る世界から外さないように、
すこし不思議そうな表情をしているのが思い浮かぶ。
そんなことない、と私は思いつつ、
忘れるわけもないけれど、それを伝えることは難しいよな、と思う。
忘れたことを証明するのは簡単だけれど、
忘れていないことを証明するのは、結構難しい。
「愛している」ということを証明しようとする試みが、
これまでどれだけ撃沈してきたのかを数える気にもならないように。
その撃沈に至るすれ違いと断絶とは、
これをカフェラテと呼ぶか、
シダのような植物と呼ぶか、
はたまたアートと呼ぶか、
の違いだけなのだが。
きっとただ美味しいものが、そこに「在る」だけのように。
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究極の癒しとは、「忘却」である。
以前に、そんな言葉を聞いた。
その通りだと思う。
何かに無心になっているとき、我を忘れているとき、
あるいは美しいものを眺めているとき、
時には心ゆくまで美味しいものを堪能しているとき、
人は叶わぬ夢や、振り返らない恋人や、
足りない才能や、月末の支払い、身体的なコンプレックスに
心を縛られることは難しい。
それらの瞬間、問題は忘却の彼方にあり、
私たちを思い悩ませることはできない。
そのとき、問題は「解決」しているわけではない。
けれど、人生を楽しむことはできる。
問題を「解決」すると、「次」が来る。
高校1年生の問題集を解いたら、
ステップアップして高校2年生の問題集が示されるように。
18ホールで100が切れたら、次は90を目指すように。
「解決」を目標とするなら、
輪廻のスパイラルのように終わりがなくなる。
お釈迦さまの教えでは、輪廻は車の車輪のように永遠に続くが、
「解決」を目標にしたスパイラルはいつか燃え尽きる。
それもまたプロセスとして良しなのだが、
最終的な「癒し」とは、問題の「忘却」を指すのかもしれない。
あぁ、そういえばそんなこともあったっけ。
けれど、いったい「忘却」とは何を指すのだろう。
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ボウルに卵を二つ、割って入れる。
菜箸でその二つの卵をかき混ぜる。
ものごとが起こるとは、そんなことのように思う。
起こった後で、一つの卵だけをもう一度取り出すことは、できないのだ。
もうそれは不可分に混ぜ合わされ、私の中の一部になっている。
忘れることなど、ありはしないし、
別れることなど、ありもしない。
起こってしまったこと、出会ってしまったことは、
もうボウルの中の卵のように、混沌の中で一つになる。
それをまた分けたり、捨てたり、忘れたり、
別れたりすることなど、実のところ、ありはしない。
そうだとするなら、「忘却」とは混沌となった卵たちに、
牛乳と砂糖を混ぜて濾し、火を通して冷蔵庫に入れて
放っておくことかもしれない。
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その方に、どんな言葉を返そうかと迷っているうちに時間が経ってしまう。
やっぱり忘れていないことを証明するのは難しいな、と思う。
それでも私は、
ぐるぐるの柱の上に、五芒星が見えると言ってたターミナル駅のことを思い出すし、
自分と仲直りしたあと、よく晴れた二日目の空の色を思い出すし、
湯気のような霧が出ていた朝の白い山々の稜線を思い出すし、
曇り空の下に浮かんだ灯篭の存在感を思い出すのだ。
忘れることなどなくて、別れることもなく。
今日も、ここにいる。