大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

続けていることの恩恵は違和感に気づけること、そしてそれをどうにかしようとしなくなること。

何かを続けていると、わかることがある。

わからないことも、もちろんあるけれど。

それでも、続けているとわかることもある。

多くの場合、それは「違和感」としてやってくる。

続けることは、内省の一部なのではないかと感じる。

違和感に気づいたからといって、それをどうにかしようとしなくていい。

ただ、いまあるものを認めること。

それは、自己受容の大きな大きな一歩目である。

それを、どうこうしようとしなくてもいい。

海に波があるように、
言葉にリズムがあるように、
空に天気があるように、
こころに感情があるように、
月が満ち欠けするように、
そこに在るものは、ただそのままにしておけばいいのだ。

ただ、見ているよ、と認識すれば、大きな川のごとく流れていくものだ。

このあたり、人生で起こる様々な問題と似ている。

何か問題が起こったとき、人は原因を探す。

それらしい原因が見つかると、人はそれを直そうとする。

自分の中に見つかったとしても、自分の外側の世界に見つかったとしても。

それが悪い、だから直さないといけない、と。

往々にしてそれは直らず、問題を複雑化する。

ほんとうの解決とは、気付いたら忘れることだ。

そのままにしておくこと。

問題の解決とは、忘却であると言われるように。

見つけたら、そのままにしておくのだ。

たとえば、ストレッチを続ける。

毎日同じということはなく、昨日の身体の感じと、今日の身体の感じは異なる。

それは、違和感として認知される。

昨日は左の肩が柔らかかった気がしたけど、今日は右の腰がいつもより固い気がする…などなど。

だからどう、というわけでもない。

ただ、「そうなんだ」と気付くだけで、いいのだろう。

今日のわたしの身体は、そうだったのだ。

それを、そのままにしておこう。

たとえば、毎日文章を書く。

書くことは自らの内面を映し出す。

水面が日々移ろいゆくように、こころもまた日々揺れ、移ろいゆく。

どんな内面を映し出しても、だからどうこうというわけでもない。

ただ、そのままにしておこう。 

たとえば、走ることを続ける。

昨日の身体は重かったけれど、今日は軽いな、なんてことがある。

違和感を、感じる。

ただ、感じるだけでいいのだ。

ただ在るものを、そのままにしておけば、いい。

夜、走っていると、はっとした。

視界の先にあった桜の木の枝が、街灯に照らされて、ピンクの花が満開になっていたように見えた。

見上げると、寒空の下には、昨日見た通りの枯れ木が、そこにあった。

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だからどう、というわけでもない。

桜は、そこに満開だったのかもしれない。

ただ、そのままにしておこう。