何かを続けていると、わかることがある。
わからないことも、もちろんあるけれど。
それでも、続けているとわかることもある。
多くの場合、それは「違和感」としてやってくる。
続けることは、内省の一部なのではないかと感じる。
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違和感に気づいたからといって、それをどうにかしようとしなくていい。
ただ、いまあるものを認めること。
それは、自己受容の大きな大きな一歩目である。
それを、どうこうしようとしなくてもいい。
海に波があるように、
言葉にリズムがあるように、
空に天気があるように、
こころに感情があるように、
月が満ち欠けするように、
そこに在るものは、ただそのままにしておけばいいのだ。
ただ、見ているよ、と認識すれば、大きな川のごとく流れていくものだ。
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このあたり、人生で起こる様々な問題と似ている。
何か問題が起こったとき、人は原因を探す。
それらしい原因が見つかると、人はそれを直そうとする。
自分の中に見つかったとしても、自分の外側の世界に見つかったとしても。
それが悪い、だから直さないといけない、と。
往々にしてそれは直らず、問題を複雑化する。
ほんとうの解決とは、気付いたら忘れることだ。
そのままにしておくこと。
問題の解決とは、忘却であると言われるように。
見つけたら、そのままにしておくのだ。
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たとえば、ストレッチを続ける。
毎日同じということはなく、昨日の身体の感じと、今日の身体の感じは異なる。
それは、違和感として認知される。
昨日は左の肩が柔らかかった気がしたけど、今日は右の腰がいつもより固い気がする…などなど。
だからどう、というわけでもない。
ただ、「そうなんだ」と気付くだけで、いいのだろう。
今日のわたしの身体は、そうだったのだ。
それを、そのままにしておこう。
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たとえば、毎日文章を書く。
書くことは自らの内面を映し出す。
水面が日々移ろいゆくように、こころもまた日々揺れ、移ろいゆく。
どんな内面を映し出しても、だからどうこうというわけでもない。
ただ、そのままにしておこう。
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たとえば、走ることを続ける。
昨日の身体は重かったけれど、今日は軽いな、なんてことがある。
違和感を、感じる。
ただ、感じるだけでいいのだ。
ただ在るものを、そのままにしておけば、いい。
夜、走っていると、はっとした。
視界の先にあった桜の木の枝が、街灯に照らされて、ピンクの花が満開になっていたように見えた。
見上げると、寒空の下には、昨日見た通りの枯れ木が、そこにあった。
だからどう、というわけでもない。
桜は、そこに満開だったのかもしれない。
ただ、そのままにしておこう。