人は自分の居心地のいい空間や領域(=コンフォートゾーン)に留まろうとする。
考えてみると当たり前の話なのだが、それでも時にコンフォートゾーンを抜けようとすることは、自らの生を豊かにしてくれる。
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意識的にせよ無意識的にせよ、人は目の前に現れる無数の選択の中から、コンフォートゾーンに留まることができる選択を重ねていく。
朝起きて顔を洗うかどうか、というような当たり前の小さな選択から、誰と会うか、何にお金を使うか、どんな仕事をするか、といった大きな選択まで、その人の日常とは、日々の選択の積み重ねの結晶だ。
コンフォートゾーンの中にいれば、慣れ親しんでいる習慣や考え方、行動をトレースするだけでいいので、不安になることはない。
けれども、人間とはよくも悪くも慣れの動物と言われるとおり、繰り返される毎日とは言い換えれば退屈な日常となる。
かつて一休宗純が「誕生日は冥土の旅への一里塚」と詠ったとおり、誰しもが例外なく肉体的な終わりを迎える。
それを怖れて縮こまった生になることもないが、やはり自分の「意思」を持って日々の一つ一つの選択をしていくことは、ときに生を充実させ、豊かにしてくれる。
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コンフォートゾーンを一歩抜けてみることで、自分のそれを広げてみることは、自らの生を豊かで充実したものにしてくれる。
一歩外に出て体験をすることで、人は自らのコンフォートゾーンを広げることができると、豊かさを感じられる範囲が広がるのだ。
高級フレンチのフルコースに満足するのと同じように、
高架下の大衆居酒屋のツマミに感動することができるようになれば、
どこへ行っても食事が楽しい。
これは、逆も然り、だ。
皮膚と同化したパジャマのまま自宅で過ごすリラックスと同じように、
五つ星のホテルのクラブラウンジで休息できれば、
いろんな自分の休ませ方ができるようになる。
コンフォートゾーンを抜けるとは、不確かなものへ足を踏み入れること。
それは、自らの意思で新しい習慣を始めることもそうだろうし、
卒業や入学、就職といった自分の外の環境の変化によって感情が揺さぶられることもそうだし、
あるいは身近な人との別離や、恋人の翻意、怪我や病気といった、いわゆる「問題」と呼ばれるものに強制的に連行されることもある。
たいせつなのは、コンフォートゾーンの中にいることは、「いまの」自分にとって心地よいことかもしれないが、「将来の」自分にとっては窮屈な空間である可能性がある、と気づくことだ。
苦手だから、やめておく
という習慣から、
苦手だけれども、あえて飛び込んでみる
という選択をしてみる、ということ。
その習慣こそが、コンフォートゾーンを、生の豊かさを広げていく。
未知の選択に対し、人の脳は強い拒絶反応を示す。
それは、もしかしたら死が隣り合わせにあった、遠い遠い昔の狩猟時代の名残なのかもしれない。
それでも、一度でも経験すると、人の脳は既知のものと見なす。
そして、「前これをやって死ななかったから、もう一度やっても多分大丈夫だ」という感覚を得ることができる。
そうして、コンフォートゾーンは広がっていく。
それでも、初めておひとりさまで居酒屋に入るときのように、未知のことを経験するのは怖い。
その怖さを超えるのは、やはり心の奥底にある種火なのだろう。
その種火とは、
燃え盛る情熱と呼ばれるのかもしれないし、
深い愛情とも呼べるのかもしれないし、
産まれてきたこと、全てのことに対しての感謝と呼べるのかもしれない。
いままでのコンフォートゾーンをつくってくれた環境に感謝しつつ、それを形成した自分の頑張りや努力を認め、その上で謙虚さをもって、古い自分を手放していくこと。
それこそが、コンフォートゾーンを抜ける、ということであり、
人の心理的な成長と呼ばれるものなのだろう。
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と、ここまで前置きが長くなったが、そんなことを考えながらつぶやいたツイートが、キングコングの西野亮廣さんのブログで取り上げて頂いた。
世界の誰も見たことのない景色を求め、常にコンフォートゾーンに安住せずに挑戦を繰り返す西野さんに、日々熱量を頂いている。
ありがとうございます。
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