ブログやSNSで人気を集めるためには、
「役に立つこと」か、
「共感されること」か、
いずれかが大切だと聞いた。
確かにその通りだよな、と思う。
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人は「役に立つ」ことが知りたいから、これだけ情報技術は発達したのだろう。
以前に自分の書いたエントリーをふと眺めていたが、「役に立つ」ことを意識して書いていた時期も、もちろんあったように思う。
「誰かのために」書こうとすると、自分の中にある知識なり経験を体系的にアウトプットする必要にせまられる。
実は、それこそが学んだことを血肉にするために最も効果的な方法だと、書いてきて実感している。
人に伝える、教える、言葉にする。
それをするときに、人の頭はフル回転し、学びが身に着くようだ。
そしてもう一つ、「共感されること」。
人は何かに「共感して」感情を動かされたいものだから、
映画を観に行くしジェットコースターにも乗るのだろう。
ご多聞に漏れず、私も他人から共感されたいという根源的な欲求がある。
悪く言えば、寂しがり。
よく言えば、私はストレンスグファインダーのテストで「運命思考」という、「すべてが一つながりだと捉えられる」という資質第一位である。
書いていて、共感されるという感想を頂けたときは、とても嬉しい。
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けれども最近はそのいずれも、それほど強く意識しなくなった。
いや、やろうと思ったけれどもできなかった、という方が正直なところなのかもしれない。
「〇〇をするための10の方法」とか、アクセスを集めるためのタイトルとか萎えるし、
人の感情を動かくセールスライティングとかも学ぼうとしたけど、気づけば途中で挫折していしたし、
アフィリエイトやアドセンスを貼るのも、お金のブロックが強すぎるのか、できなかった。
もしかしたら、この先、縁があればやっているかもしれないけれど。
いまは、
役に立たなくてもいいし、共感されなくてもいいように思う。
それが逃げなのか、諦めなのか、それとも割り切りなのか、よくわからない。
ただ、自分の中の心のなかの微かな動きだったり、
往く道にこんな美しい花が咲いていることだったり、
淡い色の青空に浮かぶ雲の動きだったり、
ふと風向きが変わったことだったり、
なぜか思い出した以前に一人暮らしをしていた部屋の壁の染みの形だったり、
そんな、役にも立たかもないし、共感もされないかもしれないことを、
ただ、日々書いていたい。
道すがらで見つけた菜の花も、
だれかの役に立とうとも思っていないし、
共感されようとも思っていないのかもしれない。
それでも、その花を見て、
こんな花が咲いている
柔らかな冬の陽の下で、映える美しさもある
そんなふうに感じる人が、もしかしたらいるかもしれない。
それは今すぐでなくて、時間が経ったあとかもしれないし、
もしかしたらだれも何も感じないかもしれない。
それは、誰にも分からない。
そんなふうに思うのだ。
でも、そのためには、
やっぱり咲くこと、かたちにすることは必要かな。
花は誇らず、ただ咲く。