「わたしは、そこは、歩かない。」
どんなにすごい誰かにそれを勧められようとも、
どんなにそれがきらびやかに見えようとも、
どれだけ多くの人がそうしていようと、
わたしは、そこは、歩かない。
その十二文字は、まるで祝詞のようだ。
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自己受容とは、ある地点で反転するようだ。
すべてに「YES」を出す自己受容が満たされると、
「NO」を言うことができるようになるのかもしれない。
人によっては逆のプロセスを歩むのかもしれないが、どうも私はそのようだ。
「NO」とは、自己を否定することでも、他者を否定することでもない。
「わたしは」「そこは」「歩かない」という意思表示をするだけだ。
自分を否定していて、価値を自分の外に置いているほど、外界の音に揺さぶられる。
すごいあの人が言っていたのだから・・・
違和感を感じている自分の本音は置き去りにされ、これまで培ってきた器用さが発動しだす。
リンゴの木の枝の先に桃の木を、その先に柿の木を。
その先にはブドウの木を、その先には・・・
接ぎ木の先に、甘い香りの果実や、世間的な評価や、お金や、結婚、地位・・・といった実がなっても、気づけばもとの木の根元から腐臭がしていることに気づく。
接ぎ木に接ぎ木を重ねた末に、もはやもとの木は何の木だったのだか分からなくなる。
ここに来ても器用さんは、まだ枝の先に何の実が足りないのかを考える。
梨がよかったのだろうか、栗が妥当だろうか・・・
いつもその枝葉の部分を気にしては、誰かのなかの何かを探している。
自分が何の木だったのかも、
好きなこともやりたいことも、
いや、好きかどうかさえも、
まして将来の夢なんて、
いつも正体不明ののっぺらぼう。
いつしか誰かに言われてつけた枝葉の先の実を、自分だと思い込んでしまう。
その実は、みんなが価値を感じているものだと思うから。
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けれども、真実はそうではない。
ほんとうに大切にして、真っ先に捕まえに行くべきなのは、
「みんなが価値を感じていない(ように自分には見える)が、ほんとうは価値があるもの」なのだ。
それは、他でもない。
根腐れして、腐臭を放っている、根本の木の部分だ。
ほんとうの意味での自己受容、「YES」とは、
「いいもの」「よきもの」に「YES」を「許可」を降ろすことではなくて、
「ダメなもの」「価値がないもの」「役に立たないもの」にこそ、破顔一笑してサムアップをすることだ。
引っ込み思案な私、素直になれない自分、汚部屋に生息するオレ、意志が弱くて頼りない私・・・自分の思っている最低の私に、「YES」を出し続けること。
不思議なことに、それを続けると否定に溢れていた世界が変わる。
ダメで無価値で役立たなくて最低なのは、思い込みだったかもしれず、腐臭は実は根元に埋められていた生ゴミが臭っていただけかもしれない。
その生ゴミは、あなたの木そのものには、まったく無関係だ。
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どんなに寒くても、立春過ぎれば徐々に暖かくなるように、
ものごとはいつでも臨界点を迎えると反転する。
自己受容がある閾値を超えると、「NO」を言えるようになるのかもしれない。
相手を否定する「NO」ではなく、あなたのたいせつな道でも、わたしはそこを歩かない、という「NO」。
その道は、あなたがたいせつに歩いてほしい、と。
最低なものを肯定する「YES」とは反対に、
どんなにすばらしくてメリットがあるように見えても、「自分は」選ばない、という「NO」だ。
どんなにいい香りの桃だろうと、世間でメロンが売れていようと、いま継げば秋の時期に栗が収穫できることがわかっていても、
それはわたしのすることではない、と言えるようになる。
それは否定することではない。
限りなく肯定や受容に近い「NO」なのだ。
「わたしは、そこは、歩かない」
やはり、それは祝詞のようにわたしの歩く道を照らしてくれる。
「NO」があってこその、「YES」。
「YES」があってこその、「NO」。
わたしは、そこは、歩かない。
それは、「NO」でもあり、「YES」でもある。
やはり、祝詞のようだ。