昨日のこちらのエントリーに、ご感想をいただきました。
自分の闇を晒すのは勇気が要りますが、書いてよかったと思います。
ありがとうございます。
その中で、
「どうやったら手を上げるようなことを、しないようにできますか?」
「どうやって自分を癒してきたのですか?女性の側からすると、パートナーの持つ無力感・無価値観・罪悪感とどう向き合って見守ってあげたらいいのだろう?」
というご質問をいただきました。
ふと考えて、この問いにお答えすることが、いまの私にとっても必要だと思われますので、今日はそれに回答させていただきます。
いつもと文体が異なるのは、少しセンシティブな話題を扱うので、少しでも印象が柔らかい方がいいかな、と思いそうしています。
それはさておき、先に私の答えをお伝えするならば、
一つ目のご質問に対しては、
「私はこれから手を上げることも、もしかしたらあるかもしれない」
二つ目のご質問に対しては、
「ただ、笑っていてくれれば、それでいい」
という答えになるでしょうか。
順番にお話ししたいと思います。
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まず一つ目のご質問に対してです。
私は孤独感の強い人間です。
これまでにも書いてきましたように、両親との突然の別離から抱えたそれは、私の持病のようにどこへでも付き纏ってきます。
他人との親密感への怖れは強く、それなのに孤独や寂しさを怖れます。
そして、いまでも私は疲れていたり、余裕がなかったりするとき、子どもに対して感情的に怒ってしまったりもしますし、もちろんイラついたりしますし、不安や怖れからああせえこうせえと言ってしまったりします。
この先、以前のように子どもに手を上げてしまうことも、絶対ないとは言い切れません。
もちろん、そんなことはあってはならないことですし、そうしたくはありません。
けれども、それが絶対にないと言い切れるかと言ったら、言い切れません。
「そんなことを言うのは、弱い人間だ」と言われれば、それまでなのですが・・・
ただ、以前と違うのは、そうした「あってはならいこと」をしてしまうかもしれない、未熟で不完全な自分を許している(完全に許せているわけではないので、正確には許そうとしているが正しいかもしれません)、ということなのかもしれません。
子どもに手を上げることなど、あってはならないことだけれども、それでも、そうしてしまうときもある。
聞く人によっては、汚い自己保身や自己正当化のように聞こえるかもしれませんし、実際に子どものころにそのような経験がある方には、絶対に許せないかもしれません。
けれども、「子どもに手を上げてしまうこと」を許さないことと、「子どもに手を上げてしまう人」を許すことは、同時に成り立つことができると思うのです。
誰しもが、絶対にいけないことだとわかっている。
ワクワクして心の底からの喜びで、子どもに手を上げる人なんかいない。
それでも、そうしてしまう人がいる。
傷ついた心から血の涙を流しながら、それをしてしまう人が、いる。
それはテレビの画面の向こうの人かもしれないし、自分かもしれない。
これから手を上げてしまうかもしれない自分を許すようになった(正確には、許そうとしている)ことが、大きな違いかもしれません。
いじめをなくそうと思ったら、正義の側からいじめた側に罰を与えることは意味がありません。
浮気をしたパートナーとやり直そうと思ったら、パートナーがした行為が間違っていると責めることは逆効果になります。
犯罪を減らそうと思ったら、刑法を厳しくすることがその解決策ではないはずです。
テロを無くそうと思ったら、その組織を叩くことはまったく意味がありません。
きっと真実は、そう見えるのと逆のところにあると思うのです。
それは、
いじめた側に、なぜそれをしたのかを聞くことです。
パートナーがそんなことをした心情を、理解しようとすることです。
なぜ犯罪という行為に手を染めるのかを、調べることです。
テロリストの心に、寄り添うことです。
そのためには、まず自分の闇を許すことなんじゃないかな。
私はそう思います。
ここが非常にセンシティブで表現に気を遣うのですが、
「絶対にダメだということを、誰も絶対にしてはいけない」
というのはどうやったって苦しくて、誰かがやむなくやってしまったことを責めなくてはならず、その責めは必ず自分にも向く可能性があるので、息苦しく生き辛くなります。
それよりも、
「絶対にダメだということを、ときにしてしまうこともある。ときにあなたも、そしてわたしも」
という方が、優しいと思うのです。
それは、自己保身でも自己正当化でもなくて、他人のための優しさだと思います。
その優しさは、めぐりめぐって最終的に自分に還ってくるわけですが。
日本にはそれを表すことわざが古くから伝わっています。
「情けは人のためならず」
「罪を憎んで人を憎まず」
ですね。
年を経るごとに含蓄のある言葉です。
綺麗ごとかもしれません。
私自身は虐待された経験はありませんが、かつていじめられていたことや、たいせつな肉親を殺人によって亡くした経験があります。
その上で、私は綺麗ごとを見ていたいと思うのです。
それは同時に、私自身を含めた人の不完全さ、弱さ、脆さ、汚さ・・・そういったものを許すことに他ならないように思います。
清廉潔癖な高貴な人間と、そうでない低俗で悪魔のような人間。
それは別に存在するわけではなく、一人の人間の内側に必ず両方います。
それを、許すこと。
それが、大切なことの一つかもしれません。
少しご質問の趣旨から外れたかもしれませんが、私はそのように思うのです。
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一つ目のご質問に対しての答えが少し長くなってしまいましたので、二つ目のご質問は改めてご回答させて頂きます。
あらためまして、ご感想やご質問頂きまして、ありがとうございました。