昨日の「かわいそう」という感情についての考察に、思いのほか多くの反応やご感想をいただいた。
断酒日記 【114日目】 ~「かわいそう」という危うい感情 - 大嵜 直人のブログ
読み返してみて、少し書き足りないと思うところも出てきたので、いただいたご感想とあわせて、もう少し掘り下げてみたい。
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いただいたご感想の中で、
病気をしたときに一番嫌だったのが、「かわいそう」という気配や言葉だった。
という言葉が、私の心に残った。
私は、命に関わるような大きな病気をしたことがない。
(正確には、新生児のころに黄疸が出て、高熱が下がらず何日か危うい状態だったと聞いたことがあるが、なにぶん記憶がないので、除外して考えてみる)
命に関わるような病気をしたときに、人はどんな気持ちになり、どんな感情を抱き、何に希望を見るのか、分からない。
もちろん、ドラマや小説、伝記やエッセイなどで、それを経験された方の「情報」を知ることはできる。
けれども、「情報」と「体験」はまったく異なる。
どんなに尽くされた言葉を聞いたり、写真や動画をたくさん見たとしても、「情報」と「体験」の彼岸は、大きく離れているように思う。
オホーツク海の流氷が流れつくころの枝幸の海の美しさと厳しい寒さを、実際に体験している人にとって、その「体験」は特別な意味を持つだろうし、
エジプトのピラミッドを直接訪れて自分の足で登って、その雄大さ、神秘さ、偉大さ、エネルギーといったものに直接触れた人にとって、それはやはり特別な「体験」なのだろう。
とするならば、「情報」そのものだけで、何かを語ることは、少し危うさをはらんでいるように思う。
それはインターネット(特にスマートフォン)の威力により、「情報」を得るコストが限りなく低くなっている現在にとって、たいせつな視点のように思う。
大きな病気を患っていて、かわいそうなこと。
怪我で目標にしていた大会に出られないのは、かわいそう。
志望校に落ちてしまって、かわいそうだ。
・・・
その他いくらでも、もっと生々しい例が挙げられそうだ。
たいていこういった場合、「かわいそう」と思う側は、それがどういう状況か、という「情報」は持っているが、「体験」は持っていない場合が多いように思う。
たとえば、あと1アウトで甲子園行きが決まる高校最後の夏の地方大会の決勝で、自分の守備範囲に飛んできたごく平凡なフライを緊張のあまり落球してしまい、それが契機となってチームが逆転負けを食らってしまった「経験」をした人がいるとする。
その人は、その後同じようなシチュエーションで泣き崩れる選手を見たとして、「かわいそう」と感じるだろうか?
おそらく、「かわいそう」という感情は抱かないと私は思うのだ。
その人が負った傷がまだ癒されておらず、ジュクジュクと生々しく痛んでいれば、自分のことのように心を痛め、その泣き崩れる選手の肩を抱く周りの仲間たちの顔を見て、その傷と向き合い、癒し始める契機になるだろうし、
そこで負った傷が癒されはじめていれば、「きっと、それも人生の中のたいせつな1ページになる。同じ経験を持つ者として、応援しているよ」という視点で見ると思うのだ。
これはあくまで想像上のシチュエーションの話である。
けれども、わが身に振り返って考えてみても、私のこれまでの人生の中で起こったショックなこと、イヤだったこと、傷ついたこと・・・もちろんそれなりにあるが、それらを振り返ってみても、同じことが誰かの身に起こっているのを見たとしても、「かわいそう」とは思わない。
同じような経験をした人を見かけたり聞いたりしたら、
自分のことのように胸が痛んで、
言葉にならなかったりすることもあれば、
どんなにしんどくても、
絶対にいつかそれが財産になる時間がくる、
とエールを送りたくなるときもあるからだ。
どちらに転んでも、「かわいそう」とは思わないように思う(ややこしい日本語だ)。
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話がだいぶ煮詰まってきた。
どうやら考えていくと、「かわいそう」という感情は、「情報」はあるけれども「経験」がない状態のときに起こりやすい感情なのかもしれない。
これが仮に「情報」がなくて無知な状態だったら、「かわいそう」とは感じないだろうから。
「情報」があっても「経験」がない状態において、起こりやすい感情。
そしてそれはときに、「情報」だけで正誤善悪の判断をつけて、相手を貶めることがある感情でもある。
それが、「かわいそう」の正体であり、そしてそれに抱く違和感かもしれない。
病気は悪いこと、避けたいこと。
最後の大会でミスをするのは大変な過ち。
志望校に落ちたことは、失敗。
・・・
おそらくは、真実はそうではない。
それを決めるのは、それを「経験」した人自身であり、周りの人がどうのこうのと判断するものでもないからだ。
そして、それを「経験」した本人にとっても、その正誤善悪の判断は変わっていく。
人生最大の悲劇は、人生最高の喜劇にだってなりうるし、
正誤善悪もなく、「ただ起こっただけ」という解釈にたどり着くかもしれない。
それを決めるのは、それを「経験」した人自身というだけだ。
それでは、もし自分がしたことのない「経験」を、周りの人がしていたら、それについて語ることはできないのだろうか。
「かわいそう」に代わるものがあるとするなら、それはどんな言葉なんだろうか。
それは、きっと「信頼」なのだろうと、このエントリーを書きながら思った。
「かわいそう」の代わりに、「信頼」を贈る。
では、「信頼」とは、何だろう?
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もしも周りのたいせつな人が、
どれだけ傷ついているように見えて、
どれだけボロボロに見えて、
どれだけ絶望しているように見えたとしても、
それは、その人の魂が、
世界から愛されていることを思い出すための途中経過でしかない。
新月の夜のような真っ暗闇の中においても、
ほのかに光る星の瞬きを信じている。
やさしい微笑みをした瞳のような三日月が、
いずれ夜空を彩ることを疑わない。
どうやっても、あなたはあなたの持つ尊い光を隠せないのだから。
そんな想いを贈ることなのだろう。
それは、心配とは異なるものだ。
心配は、優しさのように見えるが、実は自らの弱さからくる。
心配は、相手の持つ本来の光を鈍らせる。
信頼とは、強さであり、
強さとは、優しさのことだ。
たいせつなことでしか、人は悩まないし、傷つかない。
深く悩み、傷つき、懊悩するのは、それだけ自分の人生と真剣に向き合っている証でしかない。
その苦悩のことを、人は
才能、
と呼ぶ。
そして、いつか、その才能を、
周りのたいせつな人たちのために輝かせたい。
そんなふうに想うときがやってくる。
絶望する人ほど、偉大なる才能の持ち主だ。
飽きるまで絶望して、自分を責めて、足掻いて、
暴れて、疲れ切って、悩めばいい。
どうせ、なにをしてても愛されているし、
どうせ、なにをしてきたとしても許されているし、
どうせ、その光は周りに希望という名の灯をとものだから。
あなたも、
そして、
わたしも。
いつか土に還るそのときまで、
その闇をたいせつに抱えていけばいい。
いつかその羽根を休めるそのときまで、
その光で目に映るこの世界をあますことなく照らせばいい。
どうせ、あなたもわたしも、幸せになるのだから。
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「信頼」とは。
路傍で見かけた花に贈る気持ちと、似ているのかもしれない。
「かわいそう」よりも、そんな「信頼」を贈ろう。