決めていたわけでもないが、週末にまた晴れたので誘われるように近所の公園に花見に訪れた。
公園までの道のりでも、いたるところで桜の木の下でレジャーシートを広げ、花見をしている方たちが見えた。
春麗。
うららかな、春。
そんな言葉が思い浮かぶ。
先週末に同じ場所に訪れたときは七分咲きくらいだったが、この日はまさに満開で、少し強い風に揺れると花びらが空に舞っていた。
それにしても、今年は咲き始めてからが長かったように思う。
まるでそのまま冬に戻りそうな寒さが続いたせいも、あるのだろう。
咲いたら、散る。
それが桜の美学だが、こんな風に長く楽しませてくれる桜も、たまにはいいのだろう。
そんな風に冬物のコートが手放せない寒い日が続いたのだが、この日は汗ばむような陽気だった。
陽の光が、ぼんやりとして春らしい。
日に日に、空の色が冬の輪郭のはっきりとした色から、春のぼんやりとした色へと変わっていくように感じる。
ぼんやり。
春というのは、そういう季節なのだろうか。
寒さにかまかけて、衣替えということも忘れていた。
公園をぐるりと一周してみる。
そうえいば、先週真っ白に咲き誇っていたユキヤナギは、もうその色の多くを白から緑に変えていた。
桜もさることながら、ユキヤナギの咲き方、散り方もまた見事なのだと思う。
人生の中の、また新しい発見だった。
近づいてみると、少し花びらの散ったものも見えた。
もう、来週には葉桜だろうか。
葉桜もまた、生命力のはじまりとおわりが交錯するようで、私の好きな桜の様相の一つだ。
レジャーシートを広げて、少し遅めのお昼にする。
この日も、近所のスーパーでパンとお惣菜を買って楽をさせてもらった。
息子の大切なお友達の、トリケラトプスのフィギュアとぬいぐるみも一緒に。
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はらはらと、花びらが2枚、私の前を舞って唐揚げの前に落ちた。
ぼんやりとした青色の空を眺めながら、なぜか私は悲しみを覚えた。
桜が散るから悲しい、というわけでもなさそうだ。
春になると、人は情緒が不安定になることがある。
気温が上がる、ということは自然の理の中でどこか不自然なのだろうか。
薬缶に入れた水が、お湯になるまで熱を加える途中では、ぐらぐらと薬缶が揺れたり、水面が波だったりする。
その反対に、薬缶に入った熱湯は、時間が経てば静かに自然に冷めていく。
春の情緒は不安定で揺れやすく、秋のそれは静かに内省を促すように感じるのは、そのせいなのだろうか。
平安の昔の歌人も、桜の美しさを伝える歌として、
世の中に たえて桜の なかりせば
春の心は のどけからまし
と詠っている。
それだけ、この短期間で一気に咲き誇り、散りゆく桜というのは、千歳の昔から人の心を忙しく揺さぶってきたのだろう。
折しも、一昨日に二十四節気の一つ「清明」を迎えたばかり。
春の麗らかな陽射しの中、天地万物が清らかな明るさに輝く時候。
中国や沖縄の一部では、先祖の供養をする行事を行うことがあるらしい。
お腹が満たされて、遊具で遊びに行った息子と娘は、お腹が満たされて遊具で遊びに行ったようだった。
一人、レジャーシートに横になって空を見上げる。
淡いピンクのファインダー越しの青空を眺めながら、
私は過ぎ行く春との別れと、
過ぎ去った両親との別れのあった春に眺めた、しだれ桜の色を思い出していた。
少し眠ろうと思い、目を閉じたが、
意外と陽射しが強くて眠れなかった。
気付けば、悲しみは過ぎ去っていった。
また、思い出すのだろうと思った。
この桜のように。