食べものの世界では、四季折々に触れた食材を大切にする。
いまの時分だと、山菜、たけのこ、新ごぼう、ホタルイカ、などだろうか。
四季のめぐりとともに出回る食材に想いを寄せ、ときに口にするもので四季の訪れを感じる。
スーパーに並ぶ野菜の変化を見ているだけでも、楽しいものだ。
和食においては、そんな季節の移ろいを楽しむ表現に、「走り・旬・名残」という言葉がある。
「走り」は、その年の初物、出始めのころの食材を指し、季節の先取り、貴重さを楽しむ。
「旬」は、その食材が食べごろを迎える最盛期、多く出回るため気軽に楽しめる。
「名残」は、旬が過ぎてもうそろそろ終わりに差しかかる時期のもの。去りゆく季節を想いながら、また来年の出会いに想いを馳せる。
粋を好む江戸っ子は、走りを大切にしたと聞くが、それぞれにそれぞれの楽しみがある。
初夏の鱧の風味の豊かさは素晴らしいものだが、脂が乗った秋の落ち鱧もまた、格別なものだ。
走り、旬、名残。
どれが一番いいということもなく。
四季の移ろいを愛でることは、「いま」を生きることに近いように感じる。
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食材もそうだが、季節に咲く草花もまた、同じかもしれない。
近所の桜は旬を過ぎ、新芽の緑色の中に、わずかに淡いピンク色が残っている。
名残、という時期なのかもしれない。
開花しはじめの「走り」、満開の「旬」もいいのだが、葉桜の「名残」もいいものだ。
過ぎゆく春に想いを馳せ、少しの寂しさを味わうことは、来年のこの時期に逢いたいという希望を抱くことと同じようだ。
いつか、また。
風に舞う花びらに、別れ、儚さ、無常観と、今年も会えたよろこびとが交錯する。
花は咲き、散り、また芽を出す。
走り、旬、名残。
季節は過ぎゆき、また、戻ってくる。
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季節に咲く草花もそうだが、人と人の出会いもまた、同じかもしれない。
友人との関係も然り、恋愛関係も然り、親子関係も、さまざまな人との関係が、季節のめぐりと同じように過ぎ去っては、戻ってくる。
出会いという「走り」があり、そして交誼を重ねるという「旬」があり、そして離れる、別れるという「名残」があり。
同じ時代を生きる中で、交わりかたの濃淡が変わることもあれば、今生の別離になることもあろう。
走り、旬、名残。
食べものも、桜も。
どれが一番、ということもない。
もし、そうであるなら、「名残」もまた、味わい深いものかもしれない。
離れること、疎遠になること、あるいは別れることは、必ずしも悪いことばかりでもない。
それは、風に舞う桜吹雪のように。
さびしさとかなしさ、いとしさとともに、名残を愛でよう。
いつか、また。
また、いつか、会えるから。
散りゆく花びらが、名残惜しく。