久しぶりに手紙を書いていたのだが、末尾に書いた「ご自愛ください」という言葉が、何だかいいなぁ、と改めて感じた。
「ご自愛のほどをお祈り申しあげます」
はもちろん形式的な文章の定型文だけれど、「あなたが、自分で自分を愛せるように、私は祈っています」という意味だとするなら、その意味は深い。
そこに、人と人との関係における、大切なことが描かれているように思う。
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人は誰かの役に立ちたいと考えるし、
誰かを救いたいと思うし、
誰かを癒したいと感じる。
それは人間本来の持つ善性からかもしれないし、
それとも自己価値を認めて欲しいが故の補償行為なのかもしれない。
おそらくは、その両方入り混じっているのが、人の心というものなのだろう。
ここで文章を書いていると、時に「救われました」「癒されました」という感想を頂くことがある。
とても光栄であるし、ありがたいことであるし、正直、私の自尊心を満たしてくれる。
そんなとき、私はいつも「その感想に応えられるように」という方向に意識が向くのを怖れ、立ち止まる。
冷静になって考えてみると、
誰かを癒そう
誰かを救おう
と思って書くとしたら、これほど傲慢なことはない。
癒すためには、癒される人が必要であり、
救うためには、救われる人が必要になる。
それは、世界に癒されない人、救われない人をつくりだすことになってしまうからだ。
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熊野の旅から帰ってきてすぐに、息子から教えてもらったように、
誰かに言いたいことは、自分に言いたいこと
である。
とするならば、
(誰かを)「癒したい」「救いたい」は
(自分が)「癒されたい」「救われたい」であると言える。
かつて私は、ご両親が健在の友人と話しているとき、
「生きているうちに、親孝行するなり、感謝を伝えた方がいいよ」
「後から親孝行しておけばよかった、と後悔するから」
というようなことを話していた。
それは、私が二十歳過ぎに両親を立て続けに突然亡くした経験から得た、人生訓のように思っていた。
いまは、全くそうは思わない。
親孝行したいと思えばすればいいし、感謝を伝えたかったら伝えればいいし、別にしたくなかったらすることもないと思うし、
後悔するかどうかなんて分かりっこないし、たとえ後悔してもそれはそれで大切な感情だよね、と思う。
結局、他人にそれを言いたくなる時は、自分の中に「それができなかった悲しみ、痛み」が疼いているだけである場合が多い。
そして、その悲しみや痛みは、時間を経ても感じ尽すことができるから、一人で丁寧にその悲しみと痛みを見つけてあげればいいだけなのだと思う。
「親孝行や感謝を伝える親への接し方」「後悔しない生き方」を自分が必要だと思っても、それをしていない他人に何かを言うのは、筋違いなのだろう。
そういう生き方をしていない(ように見える)他人を見て、腹が立ったり、モヤモヤしたりするときは、自分が一番それができていないときである可能性が高い。
そう考えると、前述したような、私が「誰かを癒そう」「誰かを救おう」として書こう思ったときは、「自分を救わないといけないとき」なのだ。
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そうだとするなら、私にできるのは、
「私はこういう経験をしてきて、『いま』こう思っている、というプロセスを開示すること」
なのだろうと思う。
もちろん、それが結果として、誰かの何がしかのプロセスの参考になることがあるかもしれない。
けれど、それはあくまで「結果」でしかない。
ほんとうのところ、自分を癒し、救うことができるのは自分しかいない。
何かの契機や、誰かの言葉で救われたように感じたとしても、それは「自分が自分を救うと決めた」ことの結果でしかない。
その裏側もまた真であり、自分が何かに救われたいと思っても、自分を救えるのは自分しかいない。
痛い話ではあるのだが。
救ってもらうのではなく、
また救うのでもなく。
自分を救えるのは、自分しかいないし、
自分を幸せにできるのは、自分しかいない。
その人を救えるのは、その人自身でしかないし、
その人を幸せにできるのは、その人自身でしかない。
もし他人に対して何かできることがあるとするなら、それこそ「あなたがあなたのことを愛して、大切にすることを祈ること」くらいなのだろう。
それこそ、定型文そのままではないか。
「ご自愛のほどをお祈り申しあげます」、と。
救うでも、癒すでもなく。
救われるでも、癒されるでもなく。
ただ、そこに咲く花のように。