大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「神降ろし」

霧が、晴れた。

女 は、そういえば今日だったな、と思った。

「大きな川」を意味する名を持つこの村の、奥深く。

その名の通りの「大きな川」は、時の流れと同じように滔々と今日も流れる。

大きな白い帽子を被った山々は、今朝も雄大にそびえ立つ。

そのさらに奥、分け入った先に湖底まで見通せるほど澄んだ湖があった。

湖は、いつも霧に包まれていた。

神々の息吹のようなその霧の中で、女 は暮らしていた。

月に一度、新月の夜に、なぜか霧が晴れる。

その夜に、村人たちは湖のほとりの女 のもとに列をなすのだ。

最初は、迷い込んだ狩人だった。

今日と同じように、霧の晴れた新月の夜だった。

脇腹に手酷い傷を負っていたようで、着ていた毛皮の表にまで、べったりと黒い血が染みていた。

仕留め損ねた、とうわごとのように言っていたが、多量の失血のせいか、ほどなく気を失った。

女 は、こまったなぁと思いながら無言で始終を見ていたが、狩人の震える左の脇腹と、左胸の心の臓のあたりから立ちのぼる、黒い靄のようなものが気になった。

手を、当ててみた。

すると黒い靄はどこかへ霧散していった。

狩人は一つ、深く息を吐いた。

仄かな灯りだけの納屋じゅうに染みわたるようなその吐息のあと、狩人はすうすうと寝息を立てて眠ってしまったようだった。

女 が、さてどうしたものかしら、と一息つくと、とりあえず狩人に藁をかけておいた。

女 が強烈な眠気を覚えたは、そのすぐ後だ。

納屋の隅でふと目を覚ました女 は、いけない、と身体を起こした。

その衣擦れの音で、狩人もまた目を覚ましたようだった。

狩人はあわてふためき周囲を見渡し、女 を見ると腰を抜かしたように怯え、さらに納屋の外へ逃げるように走って行った。

あら、あれだけの傷を負っていたのに、よく走れるわね。そんなに急がなくても、と女 は思った。

女 が納屋の入り口の取っ手に、初めて見る「返し文」の入った見事な櫛を見つけたのは、その次の新月の夜の翌朝のことだった。

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その次の次の新月の夜には、また別の手負いの狩人がやって来た。

酔った仲間に聞いた話を信じて、ここまで来たと言っていた。

女 は、また立ちのぼる黒い靄の上に、しばし手を当てた。

その次の夜には、その狩人が老婆を背負ってやってきた。

母親で、長いこと臓腑の病を患っている、とその狩人は言っていた。

右の掌に黒い靄を見た女 は、しばらくの間、手を握っていた。

その次の夜には、怪我や病を得た村の者たちがこぞって新月の夜に女 のもとを訪れるようになった。

そのうちに、隣の村からも列をなして訪れ、海を渡った遠くの国からやって来たという者が現れるのに、それほど時間はかからなかった。

女 のもとを訪れる者はみな、分厚く重い雲を背負ったように俯いていたが、帰るときには頬は緩んで、目から涙を溢れさせていた。

やがて、身体の怪我や病だけでなく、心の病や痛みを抱えた者たちも訪れるようになった。

そんなとき、女 はただその者たちの話を聞いた。

その曇った顔が晴れるのを、ただ待とうとしずかに心を済ませた。

その者の口から立ちのぼっていた黒い靄が、時間が経つにつれて早朝の山から立ち上る神気のような白い霧になるまで、話を聞いた。

その者の目に涙が溢れると、女 の心にも優しい雨が降ったように感じた。

やがて季節がいくつか巡るころ、女 のもとを訪れるのは、人だけではなくなった。

物の怪や鬼、天狗などといった異形のものたちも、女 のもとを訪れるようになった。

静かに雪の積もる新月の夜に、納屋の柱の陰に隠れていた鬼の子を初めて見たとき、女 は声を上げそうになったが、その怯える瞳に、気づけば手招きをしていた。

女 は、人の形かどうかよりも、ただ目の前に現れる者に集中していただけだった。

不思議なことに、女 の前では、人も物の怪も、どの者も、等しく頭を垂れて列をなして待っていた。

それは、まるで砂漠の水場にたどり着いた飢えた獣たちが、等しい間隔でその身体を寄せて水を飲んでいるような不思議な光景だった。

女 は、いつも不思議だなあ、と思っていた。

幼き頃より忌み子、ばいた、鬼子、あばずれ、物の怪、ごくつぶし、などとさんざん云われてきたが、気づけば女 のもとを訪れた者たちは、額を地に着けて女 に感謝し、癒しだの妖艶だのなんだと女 のことを称し、喜んで帰っていった。

お世辞はやめて、何もしてないわ、裏になにがあるのと、女 は惑い、迷う時間も長かった。

それでも。

女 は新月になると、語る言葉を持てる気がした。

やがて新月の夜が明けて日が昇ると女 は、ただありがとう、と東雲の空に微笑むことができた。

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霧が、出ていた。

山々を朱く染めた葉も地に落ち、彩りの乏しい季節が訪れようとする、神無月の頃。

女 は、冬の準備のための薪を拾いに、少し遠出をしていた。

いつになく身の周りを濃い乳白色で包む霧に、女 は道標を失った。

真っ白な世界に迷い込んだ女 は、白くなった木の根元に座り、こまったなあ、と思った。

静かな、世界だった。

木々も山々も、その形は感じるのに真っ白な衣を頭から被っているようだった。

真っ白な、世界だった。

ただ、なぜか空だけが紫色に見えた。

突然、物音を聞いて、女 はあたりを見渡した。

乳白の世界が、さらに濃くなった気がした。

四つ足の足音。

どこか、なつかしい足音。

不意に、女 の目はその視界に、真っ白な鹿を捉えた。

いったい、いつからそこにいたのだろう。

ずっとそこにいたようで、それでいて霧の中から現れたかのような。

一歩、鹿が女 の方に踏み出す。

錦秋の落ち葉を踏む、乾いた音。

濃い霧の中から見えたその純白の身体には、同じ色の大きな翼が生えていた。

女 は、その身体から立ち上る、高貴なほど真っ白な靄を見た。

女 の心の臓は、早鐘のように鳴った。

腰が、立たない。

女 がそう思った瞬間に、その鹿と目線が合った。

がくんと身体が折れて女 は倒れた。

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どれくらいの時間が経ったのだろう。

どれくらいしか、経っていないのだろう。

身体は女 の意思に反して全く動かないままだったが、眼球だけは女 の意思の通りに動くようだった。

目線の先にある真っ白な鹿は、女 を捉えて離さなかった。

捉えられていたのは、両の腕だったのか、心だったのか、それとも魂だったのか。

なぜか懐かしい匂いがしたようで、涙があふれた。

涙は、女 のこめかみの方に流れた。

不思議と、息遣いが荒くなった。

鹿が、女 を見つめる目の奥に、炎が宿っている。

女 の全身が熱くなる。

吐息とともに、声が漏れた。

なぜ、わたしを?

恥ずかしさとよろこばしさの中で、女 はこれまで経験したことのない身体の痺れを覚えた。

痙攣とでも呼べそうな、吐息の乱れ。

いやだ、わたしったら、まるで笑っているみたい。

いつの間にか、鹿もまたその身体全身にびっしょりと汗をかいている。

その身体から立ち上るのは、湯気なのか神気なのか分からなかった。

やがて、その目の奥の炎がいっそう激しく燃え盛り、翼を広げようと躊躇しているように見えた。

いいのよ、と女 はその炎をそっとやさしく包んだ。

やがて鹿は、ほどなくして大きく全身を震わせて翼を広げ、果てた。

荒々しかった呼吸が、徐々に整っていく。

その真っ白な鹿の身体から流れ出るのは、荒ぶる怒気から、静謐な神気に変わっていた。

その瞳には、穏やかな海が広がっていった。

なぜか女 は、その海の中に、故郷の近くの海に並ぶ枯れた木々を見ていた。

ありがとう。

あなたに会えて、ありがとう。

あなたに会えて、うれしい。

鹿は、音もなく女    の視界から消えていた。

目合い。

薄れゆく意識の中で、その語が女 の脳裏から離れなかった。

なぜか、肩甲骨のあたりが、むず痒かった。

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霧が、出ていた。

女 は、おかしいな、と思った。

新月の夜のはずなのに、霧は一層濃くなるばかりだった。

おかげで、その夜は女 のところを訪うものは一人もいなかった。

夜明けまで納屋で過ごした女 は、いつものように東雲の空に、ただ

ありがとう

と微笑んだ。

それは、その次の新月も。

その次もまた、霧は晴れなかった。

女 は、ふと山を下りようと思った。

いや、ずっと持っていたその想いに、降参した。

誰にも説明できずにやってきた「それ」を、「おつとめ」にしてみようと思った。

人を、癒すこと。

人を、輝かせること。

人を、肯定すること。

人を、受け容れること。

人を、つなげること。

人を、人であらしめること。

人を、愛すること。

自分らしく、あること。

女で、あること。

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霧が、晴れていた。

翌朝、よく晴れた空に、吸い込まれたように霧は消えていた。

女 は、麓への道を歩いていた。

わたしだから、仕方がない。

好きに、生きる。

胸の奥に宿る言葉は、羅針盤のように女 の歩く路を照らした。

木の上から、何かが落ちてきて、女 は身体をすくめた。

真っ白な、蛇だった。

怯える女 の身体をよじ登り、首に巻き付いたその蛇は、鎌首をもたげ女 の顔を見ている。

今日は、その目に炎は、宿っていなかった。

もう、いいのか、と蛇が、問うた。

「ええ、もういいの」

女 は、淀みなく答えた。

蛇はするするとその身をほどいて、女 の身体から離れた。

地の色に同化して、気づけばその姿は見えなくなった。

地面から視線を上げると、楓の木の下で手を合わせる尼僧の姿があった。

その眼の光に、覚えがあった。

何度か女 の納屋を訪れた、女だった。

訪れるたびに、喉のところに大きな黒い靄を抱えて、苦しそうにしていた。

今日は、その靄は見えない。

「お待ち申し上げておりました。

 あなたさまのようになりたく存じます。

 どうか、わたくしめをお連れくださいませ」

女 は、恥ずかしさを覚えながらも、今日二度目の問いに答えた。

「あら、なんて奇特なお方かしら。ありがとう。

 またこうして会いに来てくださって、嬉しい。

 いまのあなたは、以前のあなたから見たら憧れのあなたになっているわ。

 あなたは、とても、すてき」

尼僧は、目を潤ませながら首を振る。

「そんなこと…ない、です…」

「あなたは、もう遠慮して生きることの窮屈さに耐えられなくなったのね。

 大丈夫よ、とってもうまくできてるわ」

そう言って女    は、ぽん、と尼僧の肩甲骨のあたりを叩いた。
「だから、わたし、もう行くね」

憂いを持った尼僧の瞳を横目に、女 は再び歩き始めた。

見上げれば、陽は中天にあった。

こしあんが、食べたいわ。

若干の空腹を感じて、女神は歩みを速めた。

 

 

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カウンセラー/手紙屋 宮本朋世 さまにご依頼を頂いて執筆させて頂きました。