四月、ついたち。
年度替わり、節目の日に熱田神宮を訪れた。
「朔日参り」という言葉がある通り、いつもよりずっと人出が多かった。
出店もあるようで、参道で準備が進んでいた。
リクルートスーツに身を包んだ若い方たち、10人くらいが、宮司さんの後を厳かに歩いていく。
隣の神宮会館で、入社式があるらしい。
その前に、ご祈祷をするのだろうか。
もう20年近くも前の、自分のことを想う。
新しく社会人としての歩みを初めた方々に、心の中でエールを送る。
それは、とりもなおさず、自分へのエールなのだが。
境内の桜は、もう散り際で。
もう3分の1くらいが、葉桜になっていた。
それにしても、ほんの1週間ほどの間に、淡いピンクから新緑の緑へと衣替えをしてしまうものだと、妙に感心する。
その力の偉大さを想う。
本殿には、多くの参拝者が頭を下げていた。
やはり、何かの節目の際には、こうして折り目をつけたくなるのが人情なのだろうか。
ついたちは、朔日と書く。
朔とは、新月のことを指す。
月の満ち欠けを基準とした、旧暦の名残。
翻っていまは、太陽暦。
太陽を基準として、1年を365日とし、それを12か月にする。
新月という目に見える変化がわかる旧暦に比べ、太陽暦のいまの「ついたち」とは、便宜上分けたものに過ぎないのかもしれない。
それでも、月が替わると、どこか気持ちは新しくなるものだ。
良い/悪いではなく。
ただ、いまの新暦の「ついたち」があるだけ。
参道を歩きながら、それはどこか調律法の平均律と純正律を思い出していた。
ピアノなどに使われる平均律は、1オクターブを12等分して、すべての調で均等に美しい響きが奏でられるようにする。
その反面、すべてが少しずつ等しくずれていることで、純正な音程や和音を出すことはできない。
一方で、オーケストラや合唱では、純正律が使われる。
音の重なりが美しく響くように、比率を整える調律。
かつてバッハの時代の鍵盤楽器には、演奏する曲調に応じて、さまざまな調律法が使われていたと聞く。
平均律と、純正律。
陰暦と、太陽暦。
どこか、そんなことを思い出していた。
そんなことを考えていると、神鶏さまの鳴き声が。
今日も、お邪魔しております。
どうも、お世話になっております、と一礼しながら。
朝の陽光に包まれる、葉桜の。
やはり、葉桜が好きだ。
参拝のあと、境内の葉桜を愛でながら歩く、四月ついたち。