今日は、私の39回目の誕生日でした。
SNSやレターポット、手紙を通じて、たくさんのお祝いのメッセージを頂きました。
ありがとうございました。
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昔から、私にとって誕生日というのは面はゆく、いくぶんかの恥ずかしさと、そして若干の拗ねたような日でした。
拗ねる、というのは「8月12日」というのは毎年夏休みの真っ只中で、同級生の友人と顔を合わせてお祝いしてもらったような記憶があまりなく。
学校のある日に「今日誕生日なんだ」と言って、「お、そうなの?おめでとう」などと言われる同級生を見かけると、うらやましく。
そうやって拗ねておきながら、当日に会った友人やメールなんかのツールで実際に「おめでとう」と言われると、無価値観が発動して「はい、私なんかのために、なんかすいません」という面はゆさと、素直に「ありがとう」が言えない恥ずかしさがデフォルトで発動していました。
私にとっての誕生日とは、そんな日だったように思います。
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されど、39回目にして、ようやく気付きました。
誕生日とは、その人のための日ではありませんでした。
それは、その人にとって大切な人たちのための日、でした。
その大切な人たちが、「お祝いすることのできる日」。
言い換えるなら、大切な人たちに「お祝いさせてあげることのできる日」。
誕生日とは、祝福やプレゼントを「受け取る日」ではなく、それを大切な人に喜びのもとに用意させてあげる「与える日」でした。
誕生日とは、その本人のための日ではなく、実はその人のまわりの大切な人たちのための日でした。
「ありがとう」と言うこと。
罪悪感や無価値観が騒いだりしても、その日だけは素直にニッコリ笑って、その祝福を受け取ること。
誕生日とは、そんな日なのかもしれません。
あらためて、今日頂いた祝福の数々に、深く御礼申し上げます。
ありがとうございました。
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そして何より、39年前に私を産んでくれた、両親へ想いを馳せる日なのでしょう。
私を産んでくれて、ありがとう。
私の父と母になってくれて、ありがとう。
生を与えてくれて、ありがとう。
39回も誕生日を迎えることができました。
まだもう少し、見守っていてください。