向日葵が好きだ。
好きな季節の夏の象徴であり、「ひまわり」という名前も好きだ。
街中で見る小さな花のものもいいが、やはり抜けるような青空をバックにした大きな花は、夏の花だという感じがして、見ていて飽きない。
その大きな向日葵は、女性的なたおやかさをたたえながら、男性的なダイナミズムを併せ持つ。
少し離れて見ると青空との色の対比が美しくマッチしているのだが、こと近距離で見ると、その種子や茎、花弁といったディティールの粗雑さが目に付いたりする。
濁を持ってこその、清。
向日葵の美しさは、その際にあるようだ。
ただ、青空をバックにすると、映える。
その美しさは、冷房の効いた部屋の窓から眺めるのではなく、強い陽射しに額に汗しながら眺めると、殊更に映えるようだ。
向日葵が、好きだ。
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「ひまわり」という名前は、「日回り」、すなわち太陽が回るたびに顔をそちらに向けることからきている、と聞いたことがある。
真偽のほどは寡聞にして分からないが、さもありなん、と思わせる話だ。
太陽の光と、二酸化炭素と、水分。
理科の授業で習った、植物を育てる三要素の知識からも、分かりやすい話ではある。
されど、向日葵はほんとうに「日回り」なのだろうか。
向日葵の花が顔を傾けるごとに、太陽がその美しさを追いかけてくる、というようにも見えなくもない。
夏の陽射しの下で向日葵を眺めていると、そんな想いにも駆られる。
光を追いかけておいて、実は追いかけてる自分自身が光だった、というのは世の中によくある滑稽な話だ。
青い鳥を探す長い旅路の先に、実は自分が青い鳥だったと気づくこともある。
多くの神社の御神体が鏡だと云われるのも、それに似たような話なのかもしれない。
向日葵が追いかけているのは、光か、向日葵自身か。
さて、あなたが追いかけているのは、光か、あなた自身か、それとも。
向日葵も、光も、あなた自身も、どれも、同じ事象のあらわれに過ぎないのかもしれない。
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向日葵が、好きだ。
その美しさは、お盆過ぎの少し秋の気配の感じる青空の下で眺めると、殊更に映えるようだ。