ひらひらした持ち手の赤色の部分を持つ感触が、久しぶりだった。
風が吹けばどこかへ飛んでいきそうな、軽い感触。
逆側にある先端の、火を点ける部分のふくらみを見ると、いつも蜂のお腹のようだと思う。
ジジジ、と音がしてロウソクの火が赤い穂先に燃え移る。
火玉が、少しずつ丸く大きくなってくるのが見える。
バチバチと微かに音を立てながら、橙色の模様が中空に映し出される。
橙色のそれは、
雪の結晶のように無機的のようにも見えた。
橙色のそれは、
生物学の書籍で見る神経系のニューロンのように有機的にも見えた。
バチバチという音が刻む時が、少しずつ遅くなってくる。
橙色の吹き出る速度が、間欠泉のようになっていく。
ジジ…ジ…と囁くような音を残して、先端の火玉はふっと黒色になり、あたりを闇で包んだ。
水の入ったバケツにその先端を入れると、まだ微かに残っていた熱が反応したのか、「チッ」という小さな音がした。
=
まだ子どもたちだけで花火のできない小学生の低学年の頃だっただろうか、夏休みに町内の同じような子どもを集めて花火をする日があった。
私は、いつもその日が待ち遠しく、その日は朝からそわそわとしていた。
花火が禁止されている場所が多くて、「どこで花火をやるか」問題は当時も変わらずあったようで、その花火会の場所は、私と同学年の友人の経営する工場の敷地だった。
仮にその友人を「そうちゃん」とする。
そうちゃんの家の工場は、毛織物の工場だった。
私の地元は明治期に毛織物で栄えた歴史があり、まだ私が小学生の時分には、駅の周りにたくさんの毛織物の工場が並んで、機織り機の音を響かせていた。
そうちゃんには、年子の弟がいた。
気立てが優しく、鷹揚なそうちゃんとは違って、弟は器量がよく、何でも器用にこなした。
ときに、茫洋としているそうちゃんを小馬鹿にしていた。
通学団も一緒なのだから、そうちゃんの弟が入学してから、私はそうちゃんたち兄弟のあれこれに気を揉んだり、弟君のそうちゃんへの態度に胸を痛めていたりした。
ふつう、第二子が産まれると親の注意と愛情がそちらに向くため、長子は寂しい思いをして、不本意ながらも自立を促される場合が多いのだが、ことそうちゃんに関しては、それは当てはまらなかった。
そうちゃんが、疾患を抱えていたからだ。
いまになってみると、弟の方が寂しかったのだろうか、と思う。
何でも兄以上に出来て、何でもこなせるのに、両親の注意と愛情は兄の方に向いたまま。
どれだけ頑張っても、報われない。
そんな鬱屈した想いが、そうちゃんへの苛烈な態度につながっていたのかもしれない。
私の勝手な想像でしかないので、それは本人にしか分からない。
ただ、そんな兄弟も、その花火会の日は、目一杯楽しんでいた。
広い敷地に、何人かの保護者が来て一杯やっている中、好きに花火を楽しんだ光景が思い浮かぶ。
その時間は、楽しかった。
=
残念ながら、私が高学年になるころ、そうちゃんの一家は引っ越していったので、その花火会の開催は途絶えることになってしまった。
工場を経営していたそうちゃん一家が、引っ越すということについて、当時の私は詳しい話を聞いていなかった。
ただ、引っ越しのあいさつにそうちゃんの母親が来た時に、偶然居合わせた私は、そうちゃんの母親から「いつもそうちゃんと仲良くしてくれて、ありがとう」と言われた。
お礼を言われるようなことなんてしていない、と思い妙に恥ずかしかった。
そうちゃん一家が経営していた工場は、いつの間にか駐車場になっていた。
あれほど隆盛を極めた国産の毛織物は、コストの安い海外産のものに取って代わられ、あれほど駅前で元気に機織り機の音を響かせていた工場たちも、今はほとんど見る影もない。
私はといえば、その花火会がなくなってからは、「トンボ花火」「ヘビ花火」などといったキワモノの部類の花火を買っては、一人でどこかの空き地で花火をしていた。
ただ、線香花火の残り香を嗅いでいると、あの花火会の日をふと思い出した。
線香花火は、どうしたって感傷的になる。