秋は、どこか暖色の思い出と重なる。
それは路傍の花の色や、見上げる月の色に、橙や黄を多く見ることと、関係があるのだろうか。
秋は、どこか暖色をしている。
記憶の中の秋もまた、夕暮れのやわらかな陽射しの色をしている。
小学校の、西校舎の廊下を歩いていた。
給食室の横の、長い廊下だった。
今日一日の業を終えた給食室には、まだ熱が残っていたように思う。
微かに醤油と味醂、あるいは砂糖の甘い香りが満ちていた。
換気扇が大きな音を立て、その熱と香りを室外に送っていた。
その廊下に差し込む陽射しが、好きだった。
やわらかな陽射しが運動場の方から廊下を照らし、その光の中で、小さな埃か何かが、きらきらと輝いていた。
それはいつでも見られるものではなく、限られた時期にしか見られなかったように思う。
その差し込む光の方を覗くと、運動場で多くの児童が遊んでいた。
一輪車、サッカー、鬼ごっこ…思い思いの遊びに、皆が興じていた。
それを、私は眺めていた。
その廊下の先にある下駄箱で靴を履き替え、私は校庭に出た。
ちょうど出口は西向きで、隣にあった市役所の建屋の屋上に、太陽の円弧の下の部分がついて、沈んでいくところだった。
徐々に大きくなるその円弧を眺めながら、私はその西日をいっぱいに浴びた。
土埃の匂いと、ボールの弾む音。
校庭に響く歓声。
あの記憶の時間、私は何をしようとしていたのだろうか。
古い記憶は、どこか切なげで、寂しげだ。
歳を重ね、いろいろな秋を経験し味わうにつけ。
なんでもない秋の時間の、何でもないその色が、どこか愛おしい。
だからだろうか。
この季節に暖色の花を見かけると、嬉しくなる。