地下鉄東山線の伏見駅から、歩いて10分ほど。
名古屋の都心の一等地に、白川公園はある。
美術館と科学館が併設されて、緑と文化の風を感じられて心地いい。
高校時代、よくお世話になった。
田舎の街から地下鉄を乗り継いで通学していた私の定期券は、途中下車できる範囲が広い、魔法の定期券だった。
その魔法の範疇である伏見駅から、一人歩いてぶらぶらしたものだった。
不思議と、連れ立ってきた記憶が、伏見には無い。
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人とのつながりを感じると、一人になりたくなる。
地下鉄の駅まで歩くのが、いいクールダウンになると思った。
夜の白川公園は、昼間と違った趣があって、またいい。
遠くから、演劇か何かの練習をする若い集団の声が聞こえる。
靴が砂を噛む音と混じって、その声が心地よかった。
五感の中でどの感覚が鋭敏か、人によって異なる、という数十分前の会話を私は反芻していた。
それを判別する一つのリトマス試験紙が、美味しいものを表現するときに、どの感覚をまず表現するか、という話になった。
もちろん「美味しい」という味覚に準じた感想を発する人もいれば、「いい香り」という嗅覚の人、「いい食感」という触覚の人もいる。
私は、どうやら「触覚」の人のように思う。
こうして歩いていると感じる、風の色だとか、そんな皮膚感覚を感じることが好きなのかもしれない。
反対に、嗅覚は人より鈍いような気がする。
そんな数十分前の会話を反芻しながら、寒空を見上げて歩く。
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そういえば、週末は有馬記念だ。
有馬記念には、あぶく銭の思い出がある。
あれは、シルクジャスティスが勝った1997年の有馬記念のころだ。
ジャスティスとマーベラスサンデーの馬連を取った。
そのあぶく銭は、その存在を嗅ぎつけた友人たちにぜんぶ奢って、あぶく銭らしく一瞬で泡と消えたような気がする。
数少ない、あぶく銭の記憶である。
週末の有馬記念と、そのセピア色の記憶がつながる。
今年の一番人気を背負い主役を張るであろう、アーモンドアイ。
彼女の水色・赤玉霰・袖赤一本輪の勝負服は、奇しくもそのシルクジャスティスと同じだと気づいた。
果たして、彼女は来るのだろうか。
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師走の風に吹かれながら、そんな数十年前の記憶と、数十分前の記憶が、交錯する。
ふと見ると、一輪の花が咲いていた。
寒風の中に佇む、凛としたその姿。
見る世界が内なる心の内面の投影であるならば。
一人歩く私の心を、映し出したのだろうか。
つながりと孤独と、数十分前と数十年前と。
両の極が交錯する白川公園の、ちょうど端まで歩いてきたようだった。
背をすくめ、私は地下鉄の駅への歩みを早めた。