何か文章を書くとき。
論理、ロジックを使って書くことがある。
ビジネス文章やレポートなど。
そのとき、私は思考を働かせながら書いている。
A=B、B=Cならば、A=C、などと。
伝えたいことを筋道立てて考え、ロジックという梯子を主題と主題の間に架けながら、私は歩く。
そういった文章を書くのは疲れる。
それは脳みその疲れのように。
強烈に甘いものが、欲しくなる。
思い切り苦いエスプレッソとともに。
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何か文章を書くとき。
感情、エモーショナルな部分を使って書くことがある。
どうにも、表現しなければならないような焦燥感に駆られて。
そのとき、私はこの心の臓がドクドクと脈打つのを感じながら。
ココロの奥底にヘドロのように堆積した汚物に辟易しながら、あるいはその中から一筋の光を放つ愛の美しさに感動しながら。
そういった文章を書くのは疲れる。
それは感情の濁流に翻弄された心の疲れのように。
強烈に眠くなる。
呆けたように、何もしない時間が、欲しくなる。
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おそらくは。
程度の差こそあれ、誰しもがその両方の書き方をしているように思う。
書く場所で、それぞれを選びながら。
ストレングスファインダーの資質における「コミュニケーション」とは、「言葉で表現をすることで、人を納得させる影響力」であると聞く。
それは言い換えれば、「論理と感情のバランスが適切に取れた文章を書くことのできる資質」のように思うのだが、どうだろうか。
人を納得させるのは、論理でもあり感情でもある。
論理と感情。
書くという作業は、その間に張られたタイトロープの上での戯れのような。
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振り返っていると、そのいずれでもなく書いている時が、ある。
ふと、思い出す。
ふと、身体が動く。
ふと、思い立つ。
ふと、やってみる。
そんな風に、
ふと、何か書いている。
そういう時が、確かに、ある。
そのときに書いているあれは、何なのだろう。
言葉のようで、言葉でないもの。
論理でなくて、感情でもないもの。
そういうときは、大概誰かに「書いて」と頼まれたときのような気がする。
書きたい、表現したい、という意欲とは、また違うもののような。
あれは、何なのだろう。
とても、ふしぎ。
睦月のある日の東雲。夜と朝のはざまに。