3月に入ってすぐだっただろうか、その木の芽を見たのは。
冬の色をした枝の先に、小さな緑が芽吹いていたのを見て、早い春の来訪を感じた。
それから、その木の前を何度も通っているはずなのに、目が向かなかったようだ。
今日ふと目をやると、その芽吹いた小さな緑は、青空に向かって大きく腕を広げようとしていた。
気付けば、空の色も変わってきていた。
少し前に眺めたときは、凛とした冬の空の色から、霞がかかってぼやけたような春の色に変わった感じがした。
今日の空の色は青色が深く、雄大な雲の形とあわせて、春というよりは新緑の季節を思わせる。
どうも忙しかったり、心に余裕がないと、こうした日々の小さな奇跡を見落としてしまうようだ。
何かに心が囚われると、感じることをやめて思考が世界を支配して、早足で歩くようになり、眉間にしわが寄る。
豊かさから、遠くなる。
それでも、季節はめぐっていく。
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気付けば私がここで書き始めてから、季節は一周半がめぐっていった。
積み重ねてきた記事は590ほどになった。
毎日言葉を紡ぐ中で、誰かに何がしかのことを伝えられたのだろうか。
わからない。
コミュニケーションの意味とは、受け手がどう受け取ったかで決まる。
話す側と、聞く側。
その両者の間に流れる大きな川は、どこまでも広く、対岸が見えない。
それは、売る側と買う側の断絶によく似ている。
けれど、結局のところ、私にできるのは書き続けることしかないように思う。
それがどこにつながっているのか、わからない。
それでも、書いて、書いて、書いて、書いて、書いて、書いて、書こうと思う。
ときに、鼻歌を歌いながら。
ときに、魂を震わせながら。
ときに、のたうち回りながら。
ときに、書く喜びを浴びながら。
それは、真っ白なキャンバスに思い切り筆を走らせるように。
それは、寝る前の子どもに昔話を聞かせるように。
それは、真っ赤に灼けた刀を鍛錬するように。
それは、秘めた想いを打ち明けるように。
おそらく、文章を書く、表現をするという魔力に一度憑かれた人間は、そこから逃れられないのだろう。
季節はめぐる。
菜の花は、世界に黄色を与える。
今日も、ここで書くことができてよかった。
明日も、またここで。