人生の中で、ある時間を共有した人がいるとして。
その中で、ある共通の目的を持って過ごした時間があるとして。
不思議なもので、どれだけ時間が経っても、その事実は色あせないようで。
一期一会。
その言葉の意味が、歳を重ねるごとに深くなる。
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私には私の人生があって。
私の価値観があり、私の中の世界があり、日々何かを考え、こうして外に向かって何がしかを書いたりもしている。
私以外の他人がどう思うかは分からないし、まして私がどうこうできることでもないし、そしてある意味では、私には何の関係もない。
それは、友人であっても、両親であっても、家族であっても。
それは、ある意味で残酷ではあるけれど、ある意味で救いでもある。
そして、私という存在も、1か月もあれば身体を構成するタンパク質がすべて新しいものに入れ替わるように、身体も、価値観も、思考も、日々変わっていく。
他人と自分が違うように、私もまた昨日の私と同じではない。
昨日と同じ風の感触や、同じ雲の形がないように、違って当たり前で、違って当然。
季節のように、ただ、移ろいゆくもの。
ただ、そこにあるもの。
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けれど、その中で。
どこか、ある一定の時間、あるいは瞬間、もしくは刹那。
同じ何かに共感し、同じ何がしかを共有できたと感じられることが、ある。
もし、そうだとしたら。
それって、とんでもなく、とんでもないことなんじゃないか、と。
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人は、いったい死ぬまでに何人の人と出会うのだろう。
1日に10人として、1年で3,650人。
50年生きたとしたら、182,500人。
その中で、そうした何かを共有できる瞬間を持てる人は、何人いるのだろう。
100人?それとも、20人?
もっと少なくて、5人?…いや、もしかして、1人?
ひょっとすると、「0」ということだって、ありうるのかもしれない。
だって、互いに変わりゆく中で、そんな刹那があること自体が、100万馬券どころか、宝くじの1等を当てる以上に、奇跡のようなことかもしれないのだから。
ただ、100人だったから良いとか、0だったから悪いとか、そういった話ではない。
他人が何を思い、共感できた/できなかったとしても、ただ、それはそれとして。
自分の本質とは何の関係もない。
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何を感じるかは私の中の問題であり、それを他の誰かに強要することはできない。
それは同時に、他人にも同じこと言える。
それでも、もしも。
もしも、たとえ一瞬でも。
誰かと同じ方向を向いて、同じ価値観を共有して、同じ目的に向かえることがあったとしたら。
その瞬間を共有できたという幸福感は、ただ自分の中だけに留めておけばいいのだろう。
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久しぶりに食べた大将の味は、どこか懐かしく、その瞬間を思い出させてくれた。
美味しかった。
だから、私は人に会いに行くのかもしれない。
多彩な味の「きななパフェ」は、数え役満のように。