「問い」が生まれたとき、じつは同時に「答え」も生まれている。
強い光の降り注ぐ裏側に、静かな木陰があるように、
うだるような夏の陽射しと、吐く息の真っ白な冬があるように、
もっとも困難なときに、もっとも素晴らしいことが起きているように。
答えはいつも、自分の内側にある。
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時に人は、「どうしたらいいのだろう」と困惑する場面に出逢う。
それは初めて経験する困難かもしれないし、何度も繰り返してきた同じ状況かもしれない。
「どうしたいいのだろう」
肩をすくめて途方に暮れ、この広い世界のどこかに、その「どうしたらいいのだろう」の答えが売っていないか探し回る。
自分の信じていたものが脆くも崩れ去る中で、この世のどこかに、その「どうしたいいのだろう」の回答を知っている人を探す。
されどほんとうのところ、人は必ず答えを知っている。
その答えに合致する「パッケージ」を、自分の外部に探しているだけなのだ。
目に映る世界は、自らの内面を映し出したものであるとするなら、私たちは自分の内側にある答えしか、外界で見つけようがない。
そうだとするならば、
人が迷っているときは、その悩みの「答えについて」迷っているのではなく、「その答えを、信じるかどうかについて」迷っていると言える。
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答えを求めているように見えて、人は答えを知っている。
「問い」は、それが生まれた瞬間に、「答え」も同時に生まれている。
それは、昼が生まれたと同時に夜が生まれたように。
神は言われた。
「光あれ」
こうして光があった。
神は光を見て、良しとされた。
神は光と闇を分けられた。
「旧約聖書」創世記 第1章3節
どんな偉大な人が述べる答えも、
どんな正しい答えも、
どんな長い歴史の風雪に耐えた答えも、
必要ないのだ。
あなたの内面に「問い」が生まれた瞬間に、
あなたの内面に「答え」が生まれているのだから。
葛藤するのは、答えの不在ではない。
答えを受け入れることへの葛藤だ。
それはまた、
その答えを受け入れることのできる自分と、
受け入れることのできない「いまの」自分との葛藤だ。
「どうしたらいいのだろう」
そう迷うとき、必ずもうすでに答えは出ている。
答えはいつも、自分の内側にある。
内なる声に、ただ耳を傾けることだ。
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だから他人は必要ない、というわけでない。
だからこそ、他人が必要なのだ。
答えはいつも、自分の内側にある。
「その答えを信じられる自分になること」を信じて、後押ししてくれる人が、要るのだ。
そして、その人は必ずこの世界に存在している。
答えはいつも、あなたの内側にある。