今年は例年になく暖かい冬だと思っていたら、立春過ぎてようやく本格的な寒さがやってきた。
寒の戻りというよりは、初めて冬らしい寒気のような。
週の頭には、雪がちらつくのを見た。
どうなっているのやら。
七十二侯では「黄鶯睍睆(うぐいすなく)」の節気だが、まだあの美しい鳴き声は聴こえない。
暦の上では、立春を過ぎて雨水に向かうころではあるのだが。
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暦の上では、という枕詞を、私たちは好む。
暦の上では、もう春だとか言われても、なかなか実感できる気温ではない。
けれど、立秋は暑さのピークを越えるころ、立春は寒さのピークを越えるころであると言える。
ピークを越えた瞬間に、ふと感じる秋の気配、あるいは春の息吹を、古来より私たちは愛でてきたのかもしれない。
立春を過ぎたら、「寒中御見舞い」は「余寒御見舞い」になる。
峠を越えた寒さを表す語として、「余寒」は私の好きな言葉だ。
ご無沙汰しているあの人へ、余寒お見舞いでも書いてみようか。
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すこしずつ緩んでいく朝の冷たい空気。
あるいは、すこしずつ膨らんでいく木々の芽。
寒い中でも、どこに焦点を当てるかによって、厳寒期にも見えれば、春の息吹も聞こえる。
その年、初めて鶯が鳴く声を「初音」という。
「初音」を待ちわびながら、冬の世界のなかに春の息吹を探す。
昨日よりも変わっているところはないかを探しながら、微かな春の兆しを愛でる。
なんと雅な愉しみだろうか。
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目に見えて何かが変わらなくても。
どこか、違っている感じがする。
あぁ、もしかしたら、昨日よりも木の芽が膨らんでいるかもしれないな。
雨のせいかもしれないけれど、少しだけ寒さが緩んだな。
それだけで、十分なのだと思う。
そう思ったときが、その人の春なのだから。
「暦の上では」という枕詞をコンパスに、移ろう日々を感じること。
五感で感じることを頼りに、春の手がかりを探すこと。
それは、自分を生きることのささやかな一歩なのかもしれない。
刷毛で塗ったような雲と、白き月。