「どうせ、おとうは、僕よりも娘のほうがだいじなんでしょ」
罪悪感を刺激するのが得意な私の息子の、最近トレンドの手口だ。
罪悪感にまみれるのが大好きな私と、拗ねて無力感に浸りたい息子との凹凸は、どうもぴったりのようだ。
そもそも、ほんとうに息子がそう信じていたら、そんなことは怖くて聞けないのだが。
だから、それは(私の)エゴが見せてくれる、コントの一つなのだ。
そうじゃないよ、と笑ってあげるのが吉、なのだろう。
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そうじゃないよ、とはいいつつも。
娘、という存在は、男親にとって特別な存在だ。
息子とは、「だいじ」のベクトルが違う。
それは、他のどんな関係性とも違う「だいじ」なのだ。
以前にこんなエントリーを書いたが、その存在が世界にあることだけで、喜びなのだ。
ただただ、愛おしく。
そのような存在の前では、私自身の不完全さも、罪深さも、いびつさも、どうでもいいことのように思えてしまう。
そう思うようになってから、私の中で、世の女性というものの見方も少し変わったような気もする。
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暖かな陽射しと、まだ冬を感じる冷たい風。
息子と娘と公園を歩く、春の日。
自立の過程なのか、何でも親なしでやりたがる息子のおかげで、行き違いになったりドタバタとした日だった。
入れ違いになってしまった娘を探して、近所の公園まで慌てて走って戻ったり。
娘の姿が見えなくなると、なぜこんなにも平静を保てなくなってしまうのだろう。
我ながらに不思議に思う。
娘は、私がパンクを修理しに行った自転車店に、一人で歩いて行っていた。
通学路なのだが、あらためて大きくなったなぁ、と思う。
抱っこすると、ずっしりとその身体の重みを感じる。
あんなに小さかった身体が、もう軽々と抱っこもできなくなっていくのだろう。
両の手に余るくらいの喜びと、その裏返しの寂しさと。
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まだ冷たい春の風に吹かれて歩く、道すがら。
ピンクの花が咲いていた。
紅梅だったけれど、
そういえば、今日は桃の節句だった。
白梅には曇天が。紅梅には晴天が、よく似合い。