言葉というものは、不思議なもので。
千年の昔の歌人が詠んだとおり、人を慰める歌にもなる。
力をも入れずして天地を動かし、
目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、
男女の仲をも和らげ、
猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。
古今和歌集「仮名序」
かと思えば、絶対に許せない言葉のように、人を傷つける刃にもなる。
コミュニケーションとしてのツール以上に、人は言葉を扱ってきた。
この国には「言霊」という言葉がある通り、言葉は「霊」であり、また「神」でもある。
八百万の神の国ならではの、言葉との関わり方があるように思う。
言葉の不思議さは、何だろう。
それは、表象としての意味以上に、何かがあるようだ。
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書き手と、読み手。
書き手が書いた言葉の意味は、原理的には読み手に正確に伝わらない。
「ここの部分の言葉の意味は」
という説明にすら、言葉が要るからだ。
書き手と、読み手。
その間には、大いなる断絶がある。
それは、商品の売り手と買い手の構造と似ている。
マルクスの言葉を借りるならば、売り手は、商品を商品たらしめるために「命がけの飛躍」を強いられる。
書き手もまた、読み手の恣意的な判断を怖れずに、常に「命がけの飛躍」を求められる。
書き手と読み手、そして売り手と買い手は、原理的に似ている。
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それだけの断絶がありながら、なぜ私たちはこんなにも言葉の不思議さに魅了され、言葉を紡ぐことをやめないのだろう。
それは、書かれたこと以上のものを、言葉が孕んでいるからなのかもしれない。
それは、言ってみれば「行間」というほどの意味なのだろうが、それだけに限定されるものでもないように思う。
ディスプレイに表示された黒い文字、あるいは紙に印刷された黒い染みは、単なる影でしかない。
プラトンの「洞窟の比喩」よろしく、誰しもがその影を見て、本来の光の世界を思い出す。
言葉はフィクションではなく、イデアの影なのかもしれない。
本来の自分の光に惹かれるからこそ、言葉に惹かれる。
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言葉は書かれたものだけではない。
冒頭に記したように、歌も言葉であるし、話された声、あるいは朗読もまた言葉だ。
音で発された言葉というのは、時間の芸術である。
そう考えると、「朗読」というものは、その言葉の映しす光、あるいはイデアを浮き彫りにさせてくれるような気がする。
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ということで、前振りが長くなりました。
以前に私が執筆させて頂きました作品を、朗読いただく機会をまた頂きました。
朗読いただく作品は、カウンセラー/手紙屋の宮本朋世さんのご依頼で執筆させて頂いた「神降ろし」 となります。
詳細、申込み方法は以下のリンクをご参照ください。
時間が創りだす芸術、そして回数が織りなすその変化を、私も楽しみに待ちたいと思います。