大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。それでも、愛することを諦めきれないあなたへ。

【ご案内】 オンライン:5/23(土)22時~ 第二回「新月の夜のオンライン朗読会」

言葉というものは、不思議なもので。

千年の昔の歌人が詠んだとおり、人を慰める歌にもなる。

力をも入れずして天地を動かし、

目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、

男女の仲をも和らげ、

猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。

 

古今和歌集「仮名序」

かと思えば、絶対に許せない言葉のように、人を傷つける刃にもなる。

コミュニケーションとしてのツール以上に、人は言葉を扱ってきた。

この国には「言霊」という言葉がある通り、言葉は「霊」であり、また「神」でもある。

八百万の神の国ならではの、言葉との関わり方があるように思う。

言葉の不思議さは、何だろう。

それは、表象としての意味以上に、何かがあるようだ。

書き手と、読み手。

書き手が書いた言葉の意味は、原理的には読み手に正確に伝わらない。

「ここの部分の言葉の意味は」

という説明にすら、言葉が要るからだ。

書き手と、読み手。

その間には、大いなる断絶がある。

それは、商品の売り手と買い手の構造と似ている。

マルクスの言葉を借りるならば、売り手は、商品を商品たらしめるために「命がけの飛躍」を強いられる。

書き手もまた、読み手の恣意的な判断を怖れずに、常に「命がけの飛躍」を求められる。

書き手と読み手、そして売り手と買い手は、原理的に似ている。

それだけの断絶がありながら、なぜ私たちはこんなにも言葉の不思議さに魅了され、言葉を紡ぐことをやめないのだろう。

それは、書かれたこと以上のものを、言葉が孕んでいるからなのかもしれない。

それは、言ってみれば「行間」というほどの意味なのだろうが、それだけに限定されるものでもないように思う。

ディスプレイに表示された黒い文字、あるいは紙に印刷された黒い染みは、単なる影でしかない。

プラトンの「洞窟の比喩」よろしく、誰しもがその影を見て、本来の光の世界を思い出す。

言葉はフィクションではなく、イデアの影なのかもしれない。

本来の自分の光に惹かれるからこそ、言葉に惹かれる。

言葉は書かれたものだけではない。

冒頭に記したように、歌も言葉であるし、話された声、あるいは朗読もまた言葉だ。

音で発された言葉というのは、時間の芸術である。

そう考えると、「朗読」というものは、その言葉の映しす光、あるいはイデアを浮き彫りにさせてくれるような気がする。

ということで、前振りが長くなりました。

以前に私が執筆させて頂きました作品を、朗読いただく機会をまた頂きました。

朗読いただく作品は、カウンセラー/手紙屋の宮本朋世さんのご依頼で執筆させて頂いた「神降ろし」 となります。

詳細、申込み方法は以下のリンクをご参照ください。

【お誘い】第二回「新月の夜のオンライン朗読会」

時間が創りだす芸術、そして回数が織りなすその変化を、私も楽しみに待ちたいと思います。