馬なり、かよ…
テレビの前で、思わず声が出てしまった。
最後の直線に入り必死に前で粘ろうとする3頭を、鞭も入れずに交わしていく。
のちの歴史的名馬が、衝撃のデビューを飾った新馬戦のような。
あるいは、インターハイ決勝に出るような高校生が、学校の運動会の徒競走に出てしまったような。
末恐ろしいまでの、その脚色の違い。
馬場の三分どころを通って、そのまま突き抜ける。
後ろを振り返るクリストフ・ルメール騎手。
昨秋の天皇賞、同じその光景。
そして普通ならば、各馬の死力を尽くした攻防があるはずの、GⅠレースの残り50m付近。
その地点で、彼女はすでにスピードを緩めたように見えた。
圧巻の、4馬身。
それでいて、勝ちタイムが1分30秒6、上り3ハロン32秒9。
牝馬限定、東京マイルという条件を考えれば、単勝140円は「破格」だったか。
アーモンドアイ、第15回ヴィクトリアマイルを制す。
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人が感情を動かすのは、そのアップダウンに、である。
悲しみがない場所に、喜びもないように。
ある感情は、その反対の感情を感じさせてくれるスパイスである。
寒風吹きすさぶ夜道を歩いて入った居酒屋の温かさが、殊更に沁みるように。
感情の落差は、そのまま感動の源泉になる。
だから、あまりに悲しいことがあって、その感情に蓋をしてしまうと、喜びや嬉しさといった感情もまた封印してしまう。
喜びの多い生というのは、すなわちその逆の悲しみの感情も豊かな生であるといえる。
その逆もまた、然りである。
いつの時代もドラマや演劇が好まれるのは、そうした感情曲線を疑似体験させてくれるからだ。
人は、いつもドラマを求める。
それが、いいことか悪いことかは、別として。
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蹉跌や失意からの復活は、ドラマやものがたりとしては王道のパターンであり、それがファンを熱狂させる。
終わったと思われた中から不死鳥のごとく甦った、オグリキャップの有馬記念。
前年秋の惨敗続きから稀代の名勝負で復活を告げた、ナリタブライアンの阪神大賞典。
度重なる屈腱炎との戦いに耐えて勝利を掴んだ、オフサイドトラップの七夕賞。
後藤浩輝騎手とともに帰還を果たした、アドマイヤコジーンの安田記念。
惜敗が続いた旅の最後に世界を相手に金メダルを獲った、ステイゴールドの香港ヴァーズ。
あのディープインパクトですら、凱旋門賞の蹉跌、薬禍から復活したジャパンカップというドラマを演じてきた。
サラブレッドの走りに、さまざまな意味を投影することで、人は感動する。
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翻って、第15回ヴィクトリアマイルのアーモンドアイ。
昨年末の、発熱による香港遠征の中止。
急遽参戦を決めた有馬記念での、初めての着外惨敗。
捲土重来を期したドバイターフが、長距離輸送を経て入国後にコロナ禍により中止。
体調不良、蹉跌、不運…
このヴィクトリアマイルを迎えるアーモンドアイの臨戦態勢には、懸念と不安要素がいくつもあった。
「普通」という言葉が、適切かどうかは分からない。
けれれど、「普通に」考えれば、そうした蹉跌を乗り越えるドラマから生まれるであろう感動は、今回のアーモンドアイの走りから私は感じなかった。
感じたのは、別の意味での感動である。
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単純に、走ることが美しいのだ。
その美しさに、戦慄と感動を覚える。
最高の機能美ともいえる、サラブレッドの疾走する姿。
滞空時間の長い大跳びの疾駆なのに、ピッチ走法のような脚の回転の速さ。
どこまでも突き抜けていきそうなその姿は、さまざまなドラマやその投影などとは、無関係のようだ。
絶対的な美は、存在する。
そう思わせてくれるような、アーモンドアイの走りだった。
無論、彼女が力を出せるように仕上げた陣営の努力は、計り知れない。
昨年末の香港回避から約半年、どれだけのプレッシャーと苦労があっただろう。
勝利ジョッキーインタビューで、コロナウイルスの感染予防のために調教に乗れなかったルメール騎手が、代わりに乗って仕上げてくれた三浦皇成騎手への謝辞を述べていたように、多くの人が関わった勝利でもある。
それでも、である。
それでも、そういったドラマを超越した走りが、そこにあった。
彼女の走りが想起させたのは、あまりにも単純で、かつ、静かな感動だった。
走ることは、美しい。
ただ、美しい。
アーモンドアイ、第15回ヴィクトリアマイルを制す。