さて、断酒も1周年を超えて2年目に入った。
師走の忘年会シーズン真っ盛りだが、変わらずノンアル民のまま楽しんでいる。
気持ちよさそうに飲む人を見ても、それほどうらやましいと思わなくなったのは、1年を過ぎての変化だろうか。
=
前回の日記で、「私がお酒から得られていた恩恵」とは何なのか、考えてみた。
「断酒のメリット」の裏側にある、「飲酒のメリット」。
それに目を向けないと、そこから得られていた恩恵がすっぽりと抜け落ちたまま、長年続けてきた仕事を定年退職したあとのように、無気力になってしまう、という話だった。
私にとってそれは、「酩酊状態」あるいは「陶酔感」であり、それがもたらすすべてがつながっている状態、というのが、前回の日記での話だった。
それを求めている以上、「適度に飲む」ということは困難な道のような気がしている。
お酒がもたらす豊かな味わい、馥郁とした香り、料理とのマリアージュといったものを求めているのであれば、まだよかったのかもしれない。
それは、いまの世の中の法において、「美食」は禁止されていないが、「ドラッグ」が禁止されていることと、同義なのかもしれない。
適度に酩酊する、陶酔感を味わう、ということは、原理的に難しいのではないか。
お酒を飲むと酩酊して、ぼんやり自分の境界がぼやけてきて、心地よくなる。
それが覚めていくのが嫌だから、覚めないようにもっと飲まざるを得ない。
いま飲んだら、また違う飲み方ができるのだろうか。
それはそうなのだろうけど、あまりその試みに心が躍らない。
だとするなら、お酒とは別のもので、その感覚を得られないものだろうか。
=
ひとつの鍵になるのは、「時間」のような気がする。
「陶酔感」には、時間感覚が深く関わっているように感じるからだ。
たとえば、勝利のカタルシスに酔うスポーツ観戦。
たとえば、時間の芸術たるライブ演奏の音楽。
たとえば、その間合いに叙情を感じるような舞台芸術。
そのいずれもが陶酔をもたらすが、それは「いまこの瞬間」という時間の縛りと無関係ではないように思う。
時間的な、制約。
おそらく、「陶酔感」はその時間の制約と無関係ではない。
良くも悪くも、書くことと読むことの間には、そうした時間の制約が無いように思う。
果たしてその「陶酔感」は、書くことの中では、得られないものだろうか。
私は、何でその「陶酔感」を得たいのだろう。
焦らずゆっくり、考えてみたいと思う。