自分のエネルギーを、誰に向けたいか。
自分を否定していたり、自分の価値や魅力を認められないときほど、そのベクトルは自分と無関係な誰かや、あるいは自分に対して否定的な誰かに向いてしまう。
それは、国技館へ大相撲を観に来た客に、どうにかしてボイストレーニングを勧めるようなものかもしれない。
それよりも、自分の方を向いてくれる人や、自分の価値を見てくれる人に、そのエネルギーを使った方が、よっぽど効率がいい。
それは効率がいいだけでなく、自分も、そして相手をも幸せにしてくれる。
=
とかく、自分の力や魅力、あるいは才能に見えなくなる時ほど、自分のエネルギーの向けたい先が霞がかかってぼやけてしまう。
それは心理的に見れば、無価値観が強くなったとき、と見ることができる。
すぐ近くにいる自分の価値を認めてくれる人の愛を受け取れず、顔の見えない誰かに受け入れられないといけないと思ってしまう。
そんなのっぺらぼうは、どこにも存在しないのに。
あるいは、自分を否定したり、軽んじてくる相手に、気を取られたり、わざわざ「この人に好かれなくては」と自分を卑下してみたり。
そんな相手よりも、自分を大切にしてくれる相手にエネルギーを向ける方が、よっぽど人生を豊かにしてくれる。
そして、そのエネルギーを向ける先というのは、どんなときでもまずは「ひとり」なのだろう。
=
もうずいぶんと昔の話だが、プロのチェリストの方に、レッスンを受けさせて頂いたことがある。
レッスンの内容もさることながら、その合間の雑談が、私にとっては面白かったように覚えている。
楽器や音楽のことというより、生き方、在り方といった話が多かったように思う。
そのチェリストの先生が、ある世界的に有名なチェリストから聞いた話があった。
私もその方のCD(当時はいっぱい買ったものだ)を何枚も持っていたくらい、有名なチェリストだった。
また聴きになるので、その世界的なチェリストを「大先生」としておく。
コンサートにおける、観客との心のつなぎ方の話。
その大先生は、コンサートで観客一人一人のハートと、糸をつないでいると語ったそうだ。
それが10人の観客だろうと、50人の観客だろうと、数百人の観客だろうと、一人一人のハートと、糸をつないでいる、と。
そして、その一人一人が、自分の演奏をどんな風に感じているか、何を想っているか、その糸を伝わって、感じることができる、と。
不思議な話だ。
何の根拠もないが、CDに収められた大先生の演奏を聴いていると、さもありなんと思わされる。
そして、その「糸」のつなぎ方についても言及されていたそうだ。
糸は、すべて同時につなげるわけではない。
ステージに立った瞬間に、こちらを見ている観客のうちの、自分と波長が合う一人と、まず糸をつないでいくそうだ。
それがつながったり、また次の一人、次の一人、と。
それが室内楽のような小ホールだろうと、コンサートホールに満員の観客だろうと、大先生にしてみれば変わらないのだそうだ。
人間の能力というのは、無限なのかもしれない。
そう感じさせてくれた雑談の時間は、印象に残っている。
=
たとえば、伝えたいことがあったとして。
どうしても表現したい、何がしかの世界の襞があったとして。
それを誰に向けるのか。
たくさんの人に届けるという目標を持つことは、いいことだ。
けれど、その「たくさん」の人は、「ひとり」の積み重ねなのだろう。
そして、その「ひとり」とは、自分に興味を持ち、自分を愛してくれる「ひとり」なのだ。