梅雨の合間の空の下。
紫陽花の上を天道虫が歩く。
とことことこ。
とことことこ。
六本の足をしきりにもぞもぞと動かし、頭を振ってあっちへ、そしてこっちへと。
何かを探しているようにも、喜びに満ちた舞いを披露しているようにも見える。
一輪の紫陽花は、そのまま天道虫にとっての宇宙でもあるのだろう。
戯れ、遊び、怖れ、迷いながら、天道虫は歩く。
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いったい、天道虫は自分の身体を小さいと思うことがあるのだろうか。
あるいは、何かに対して劣っていると感じることがあるのだろうか。
もぞもぞ、とことことこ。
そんな私の思念とは無関係に、天道虫は歩く。
ただ、歩く。
彼の宇宙を泳ぐようにして、歩く。
=
内面に刻まれた「わたしは誰かよりも劣っている」と感じる人だけが、数と権力を求める。
「わたしは誰かより劣っている」という劣等感と、
「わたしは誰かより優れている」という優越感は、
同じ地平線にある。
自分は無力であり、競争したくないと主張する人ほど、
誰かに承認され、称賛されたいというエゴを抱える。
自らの数と権力を自慢する人ほど、
自らの内で怯える幼子をあやす術を知らぬ。
それは同じコインの裏表でしかない。
誰の中にもある、その見たくもない汚泥を認めることだ。
もっと私を認めろ、称賛しろ、と。
あるいは、
私は傷ついていた、助けてほしい、と。
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自分自身をいかなる形でも卑下してはならないし、あるいは誰に対しても劣っていると感じてはならない。
また、それは同時に、
どんな数や権力に対しても自らを売り渡してはならないし、あるいはどんな人に対しても優越感に浸ってはならない。
言い古され、手垢のついた言葉でしかないが、ひとりとして同じ人間は存在しない。
すべての人間は、一つの「個」として存在している。
優劣とは比較対象が存在するがゆえに現れる概念であり、「ひとつ」のものを比較して優劣をつけることは原理的にできない。
すべての優越感も、劣等感も偽りのものだ。
それは、煙のように立ち上っては消えるだけだ。
=
すべての人は唯一無二の存在であると同時に、世界もまたそうである。
世界とは、一つの紫陽花のことであり、また一匹の天道虫のことであり、またこの宇宙すべてのことでもある。
そこに劣等感も優越感も必要ない。
=
とことことこ。
梅雨の合間の空の下。
紫陽花の上を天道虫が歩く。
ただ一つの紫陽花の上を、唯一無二の天道虫が歩く。
背中の七つの星が、陽の光に照らされて輝く。