梅雨入り前から、湿度の高い真夏日が続いていた。
しかし、ここ1週間ほどは曇り空と雨が続いたこともあり、気温も落ち着いている。
エアコンもしばらくつけていない。
そんな今日は、夏至である。
一年で最も昼の時間が長く、太陽の力が強い日、陽中の陽。
梅雨明けもまだだが、もう明日からは徐々に夜が長くなっていく。
それなのに、夏はまだこれから本番という不思議。
結果はいつも、後から追いかけてくる。
=
後から振り返ったとき、そこがターニングポイントだったと気付く地点がある。
ああ、あのときか、と。
それはスポーツの試合でもそうだろうし、人間関係においてもそうであろうし、あるいは日々積み重なっていく自分というものも、そうかもしれない。
まるで、交錯する線路の向きを決めるように、がちゃん、とレールが方向を変えた瞬間。
あのときのあれが、大きく影響したのかな、と。
けれど、それを判断できるのは、あとから振り返っている私だからこそ、できることだ。
その時間の経過を抜きにして、そのときのターニングポイントをどうこう悩んだり、あるいはその判断を責めたりするのは、単なる後出しジャンケンに過ぎない。
そのときには、そのときの私がいたのだ。
時間の経過と結果をもって判断することなど、簡単だ。
簡単だけれども、何も生まない。
そのときには、そのレールの方向を決めざるを得ない何がしかが、あったのだろう。
それは、今日の夏至が過ぎていくように、ただ流れていくのを受け入れるしかできなのだろう。
=
あるいは、別の見方をすれば。
いまの私のその見方も、時間の経過からは逃れられない。
それすらも、そう見ざるを得なかったとも言える。
まだ本格的な夏も訪れていないのに夏至か、という思いは、半年後の冬至の際には懐かしく思い出されるのかもしれない。
ただ、流れていくことを受け入れるだけだ。
それは、今日という日の空の色を、味わい尽くすことと似ているのかもしれない。