夏生まれだからだろうか、夏が好きだ。
けれど、同時に夏は寂寥感も運んでくる。
夏の暑い盛りは、なぜか死や終わりを連想させる寂しさがある。
それは、お盆を過ぎて、夏休みが終わろうとするあの切なさを、学生時代が終わってもまだ後生大事に抱えているのだろうかと思っていた。
それも確かにあるだろう。
けれど、それだけでもないらしい。
ここのところ、それは夏という季節が持つ、失われゆく、何か根源的なものが作用しているように感じるようになった。
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季節のめぐりに目を凝らすようになったのは、いつごろからだろうか。
寂しさを押し殺して働いていた頃は、寒いも暑いも、あまり気にならなかった。
雨が降ると、どこかで傘を買わないといけないから面倒だな、くらいにしか空を見ていなかった。
それが、目の前で展開される奇跡を追い始めると、季節が流れていく営みという美を知るようになった。
あまりに速く、時間と季節は流れていく。
二十四節気や七十二侯といった、折々の季節の節目を知り、またそれをもとに空や、風の匂いや、あるいは路傍の花を眺める。
この前まで何もなかった枝先に、蕾が膨らんでいる。
今日は違った色の花が咲いている。
頬に感じる風の感触が、変わった。
ほんの小さなことだ。
けれど、そのほんの小さなことが、生きることに彩りを与えてくれる。
そして、そのほんの小さなことは、私たちの感覚よりもずっと早く、そして確実に進んでいく。
暦の上では、という言葉があるように。
私たちの感覚よりも、季節のめぐりはずっと早い。
真冬の最も寒い時期に、春立てる日はやってくる。
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翻って考えると、夏、という季節はいつを指すのだろう。
暦の上での立夏は、2020年の今年でいうと5月5日。
ようやく新緑の季節に入り、まだ桜の余韻が残っている頃だ。
そして、「夏に至る」日は、6月21日。
その日が一年の中で最も昼が長く、夜が短くなる。
まだ梅雨の最中、気温はそこから上がっていくが、その裏ではもう秋への準備が始まっている。
その暦の感覚と、「梅雨明けしたら夏」という一般的な感覚とのずれは、大きい。
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夏至というのは、最も太陽の力が強くなる時候だ。
それを越えると、だんだんとその力が弱まっていく。
太陽の力とはすなわち生命力であり、夏至を過ぎるとそれは弱まり、やがて秋を経て冬を迎える。
私が思っている「夏」の季節、7月、8月というのは、季節のめぐりの中では、もう生命力が少しずつ弱まり、失われていく時期でもある。
夏に覚える寂寥感とは、そうした失われるものを無意識に拾ってしまうことと関連しているのかもしれない。
目に映る夏の風景と、その裏で進んでいく季節のギャップ。
それが、夏に覚える寂寥感の正体かもしれない。
今日から文月。2020年も、もう後半戦らしい。