振り向かなくても 何処かで愛していたはずさ
覚めないつづきを いいだけ苦しんでいたはずさ
僕のすべて 君のすべて
今日のすべて 今のすべて
CHAGE and ASKAの「HEART」の歌い出しは、どこか語りかけるようだ。
そのワンフレーズ目は、聴く者に問いかける。
もし、あのとき、あの場所で、振り向かなかったとしたら。
あの選択をしなかったとしたら。
そうしなかったとしても、結局、どこかでそうなっていたのだろうか、と。
=
人は、未来に起こる出来事に対しては、何もできない。
それは、文字通り未だ起こっていないことであり、不確定で不確実なものだからだ。
それに対して、過去に起こった出来事は、いかようにも変えられる。
怨念と憤怒と後悔にまみれた出来事も、福音と喜劇と感謝に満ちた出来事に変えることができる。
未来は変えられないが、過去は変えられる。
そのどうしようもない宿痾のような出来事は、自己受容が進むにしたがって、「そうせざるを得なかったのだ」となり、いつしか「そうあってよかった」と思うようになる。
痛みや悲しみ、ネガティブな感情を感じた時ほど、「そうあってよかった」という恩恵は大きい。
過去と未来をつなぐのは、その振り子のような自己受容なのかもしれない。
=
偶然性は神の領域だが、必然性は人の愛の領域である。
そこに意味を見出し、与えるのはいつも人でしかない。
もし、あのときそうしなかったら。
その偶然が起こらなかったら。
いまが、いまであるのだろうか。
それとも、冒頭のCHAGE and ASKAの「HEART」のように、「どこかで愛していた」のだろうか。
それとも、やはりその必然が積み重なっていなければ、いまは存在しないのだろうか。
どちらでも、同じような気もする。
神が宿す偶然に感謝を捧げるのか、それとも人の意思の織り成りである必然を愛でるのか、その違いでしかない。
=
「あのとき、あなたの言葉に出逢っていなければ、私は潰れていたかもしれない」
その言葉を言えるとき、その人は
「そのとき出逢っていなくても、どこかで見つけることができたはずだ」
ということを、信じている。
その逆も然り、なのだが。
それは、偶然を信じるか、必然を愛でるのかの違いでしかない。
偶然を司るのは神であり、必然を必然たらしめるのは人である。
結局のところ、冒頭の歌詞に戻るのかもしれない。