大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

いまではない、いま。

たとえば、初めて通ったはずの道に、既視感を覚えることがある。

いつか、通った道。

あれは、いつ、通ったのだろう。

何の機会に、誰と通ったのだったのだろう。

そんなことを考えるのだが、初めて訪れたはずの土地を、誰かと通ったことがあるはずもなく。

雰囲気が似ている道を通った記憶を、混同しているのだろうか。

その可能性も、あるだろう。

けれど、そうでもない可能性も、あるのかもしれない。

いまではない、いつか。

そのいつか、通った道。

そんなものがあるのかどうか、分からないが。

ない世界よりは、ある世界の方が、美しいではないか。

たとえば、こころが痛んで、どこへも行けないとき。

ふと。

声なき声を、耳にすることがある。

とても、こころが痛んでいた、真夏の日の朝。

耳に痛いような蝉しぐれの中に、誰かの声を聞いたりする。

そこに、いたんだ。

それは、こころの弱さだろうか。

それとも、潜在的な願望が、幻聴なりを引き起こすのだろうか。

それも、あるのかもしれない。

けれど、そうではないことも、あるのかもしれない。

ここではない、どこか。

どこかに、あの人の存在が、在る。

明確に世界を分かつよりも、そんな可能性が残ている世界の方が、優しい。

たとえば、誰かと話しているとき。

食事をしているとき。

何気ない時間の中に、どこか懐かしさを覚えることがある。

いまではないけれど、いつか。

いつか、どこかで。

こんなことを、話していた。

あれは、いつだったのだろう。

朧げな記憶の糸をたどるけれど、その糸はもつれ、ほつれ、からまり、結局どこへ行くのやら。

綾取りの紐が、とても固く絡まってしまったかのように。

けれど、その糸が、もともと一本の線であることは、間違いなく。

ときに、折々の時間の中で。

そんな糸が、見え隠れする。

いまではない、いま。

そんな記憶のなにかに、人は惑い、ときに喜び、そして導かれる。

いまではない、いま。

そんなものに、ときに人はあこがれ、振り回される。

自分ではない何者かになろうと、ずっともがき続ける喜劇と同じようなものかもしれない。

ただ、いま、しかないように。

ただ、誰でもない、自分にしかなれないように。

いま見ている世界そのものが、寸分の違いもなく、自分自身であるように。

いまの世界そのものが、何の狂いもなく、自らの設計図通りであるように。

「いつも。いつも、あなたは誰かを探していた」

「どうだろう。分からない。けれど、誰かになりたかったのかもしれない。ずっと」

「違う。あなたは、自分を探していた」

「それは、そうかもしれない。ずっと、そうだったのかもしれない」

「気づていないかもしれないけれど」
「あなたは、ずっとあなただった」

「それでいいんだろうか」

「いいとか…ううん、そうじゃない」

「どうしても、そこに価値を見出せない。もちろん、素晴らしいことだって、いっぱいあるのは、知ることができたけれど」

「違う、そうじゃない…いいとか、素晴らしいとか…そうじゃない」

「何が」

「そうじゃない」

「分かっているよ」

「ううん、分かってない」

「なにが」

「          」

「違うよ、そうじゃないと思う」

「そうじゃないかもしれない。けれど、そうかもしれない」

それを、なんと表現したらよいのだろう。

いまではない、いま。

いつも、人はそれに導かれる。

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いつか通った道のような。