大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

瞬間と永遠。

時は流れ、いつしか目の前から消え去っていく。

まだまだ先だと思っていた時間は、いつしか遠い記憶の彼方に押し込められている。
過ぎ去った時は、どれだけ悔いても、いくらお金を積もうが、戻ることはない。

「いま」という時間を、つかまえることができないように。
未来はいつしか過去になり、そしていつしか忘れ去られる。

不可逆な、時間の流れ。

それは、遥か未来の彼方に向かって伸びた歩く歩道のようで。
無機質な灯篭が等間隔に並ぶ中、時は一定の速さで流れていく。

ほんとうに、そうだろうか。
そんな気がする、だけかもしれない。

今夜眠ったら、カレンダーが一日前に戻るようなことは、ないのかもしれないが。
うたた寝から目を覚ますと、始発駅に戻っていることは、ないかもしれないが。

それでも。
時間の流れが、等間隔で無機質であることを、疑ったことがない人はいないだろう。

1秒が、永遠のように感じられるとき。
1時間が、刹那のように感じられるとき。

体感としての時間は、不思議で、そして有機的だ。

大好きな俳優の舞台を観るとき、2時間が一瞬ではないか。
心置きなく話せる友人との会話は、一晩でも足りないくらい短い。

その反対も、然りだ。

伸縮する、時間。
伸び縮みする、時間。

わたしたちの身体には、時間を感じる器官が、どこかに在るのかもしれない。

それもたしかに、時間の不思議さの一つだ。
けれど、そうした体感的な時間の流れとは異なり、「重ねられた時間」というものも、存在するように思う。

パッチワークのように、重ね合わせられた、時間。

ある日の一瞬のできごとが、ずっと続いているような。
未だ来ない日の、かたちになってすらいないことを、どこか知っているように。

時間は不可逆ではなく。

それは、ときに現れ、消え、重なり、弾け、そして揺れている。
それは、まるで、童のかくれんぼ、あるいは影絵の遊びのように。

あの日を生きたわたしが、今日のわたしの中にいる。
いつか来る日のわたしが、今日のわたしとともにいる。

あの日のあなたは、未だ見ぬ日のわたしとともにあり。
その日のわたしは、いまあなたとともにいる。

今日のわたしは、いつかの日の誰かでもあり。

瞬間は、永遠でもある。

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