時は流れ、いつしか目の前から消え去っていく。
まだまだ先だと思っていた時間は、いつしか遠い記憶の彼方に押し込められている。
過ぎ去った時は、どれだけ悔いても、いくらお金を積もうが、戻ることはない。
「いま」という時間を、つかまえることができないように。
未来はいつしか過去になり、そしていつしか忘れ去られる。
不可逆な、時間の流れ。
それは、遥か未来の彼方に向かって伸びた歩く歩道のようで。
無機質な灯篭が等間隔に並ぶ中、時は一定の速さで流れていく。
ほんとうに、そうだろうか。
そんな気がする、だけかもしれない。
今夜眠ったら、カレンダーが一日前に戻るようなことは、ないのかもしれないが。
うたた寝から目を覚ますと、始発駅に戻っていることは、ないかもしれないが。
それでも。
時間の流れが、等間隔で無機質であることを、疑ったことがない人はいないだろう。
1秒が、永遠のように感じられるとき。
1時間が、刹那のように感じられるとき。
体感としての時間は、不思議で、そして有機的だ。
大好きな俳優の舞台を観るとき、2時間が一瞬ではないか。
心置きなく話せる友人との会話は、一晩でも足りないくらい短い。
その反対も、然りだ。
伸縮する、時間。
伸び縮みする、時間。
わたしたちの身体には、時間を感じる器官が、どこかに在るのかもしれない。
それもたしかに、時間の不思議さの一つだ。
けれど、そうした体感的な時間の流れとは異なり、「重ねられた時間」というものも、存在するように思う。
パッチワークのように、重ね合わせられた、時間。
ある日の一瞬のできごとが、ずっと続いているような。
未だ来ない日の、かたちになってすらいないことを、どこか知っているように。
時間は不可逆ではなく。
それは、ときに現れ、消え、重なり、弾け、そして揺れている。
それは、まるで、童のかくれんぼ、あるいは影絵の遊びのように。
あの日を生きたわたしが、今日のわたしの中にいる。
いつか来る日のわたしが、今日のわたしとともにいる。
あの日のあなたは、未だ見ぬ日のわたしとともにあり。
その日のわたしは、いまあなたとともにいる。
今日のわたしは、いつかの日の誰かでもあり。
瞬間は、永遠でもある。