記憶は、頭の中のどこか片隅にある。
感情は、心の中のどこかやわらかい場所にある。
本当に、そうだろうか。
時に、風に揺れる木の葉が記憶を預かっていても、不思議ではないような気もする。
時に、萎れた花弁に感情が宿っていても、それはそうだろうとも思う。
記憶、あるいは感情を、どうしたって個人的な領域でとらえてしまう。
この陰鬱な感じは、自分にしかないもので、あるいはこの切なくもほろ苦い記憶は、自分だけのものとして。
誰かの葉の痛みが理解できないように、自分のそれもまた分かりえぬものだ、と。
そうかもしれない。
けれど、そうでもないのかもしれない。
その胸の痛みは、いつか誰かが遺していった痛みなのかもしれない。
どこかで会ったような記憶を、風が運んできたのかもしれない。
いつか、だれかが、通った道。
いつか、だれかが、通る道。
その記憶、あるいは感情を、木や、風や、空や、あるいは一輪の花が、預かってくれているのだとしたら。
星の、記憶とでも呼ぶべきものだろうか。
もし、そうでなかったとしても。
いつか、どこかで会ったような気がする。
たぶん、どこかでその話をしたような気がする。
その痛みを、そして愛おしさを、ほんの、一瞬でも。
ほんの、刹那の間にも、共有できるような気がしたのだとしたら。
それは、字面通りの「有難い」ことなのではないか。
それが、喜びだったとして。
それを共感することを強いることも、押し付けることも、しなくてもいい。
ただ、純粋な自分の中の喜びとして、また風に預ければいいのだろう。
いつか、だれかが、また通るのだろうから。
夕暮れも秋の色。