四季の移ろいの美しさ、あるいは儚さ。
古来から、私たちはそれを詩に、絵に、言葉に託してきたようだ。
しかし、それらを愛でるようになるには、ある程度の歳月が必要に思われる。
路傍に咲く一輪の花や、ほんのわずかな風の表情の変化、あるいは夕陽が染めあげる街の色。
そんなものに、心を揺らし、胸をときめかせ、想いを寄せる。
若かりし頃には目にも留めなかったそれらが、どうにも愛おしい。
思い返せば、梅雨は鬱陶しいだけの、夏は暑いだけの、冬は衣服を出すのが面倒なだけのものだった。
それが、歳を重ねるごとに、愛おしくなる。
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言葉を替えるならば、歳を重ねるごとに、「待つ」ことが苦でなくなると言えるのかもしれない。
生物としての時間的な制約は、歳を重ねるごとに減っていくはずなのに、「待つ」ことが苦でなくなるのは、不思議だ。
考えてみれば、物理的な死が近づくほどに、「待つ」よりも「動く」方に重きを置きたくなるようなものだ。
時間が無くなればなるほど、結果を求めて丁半博打に賭けたくなるのは、競馬の最終レースが近づく心理を見れば明らかなのだが、不思議なものだ。
もちろん、徐々に衰えていく肉体的な制約というのは、あるだろう。
けれども、不思議と歳を重ねるごとに、「待つ」ことが苦でなくなるようだ。
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「待つ」ということは、不思議だ。
受動的なように見えて、その実、能動の極みとも言える。
「待つ」ことができるのは、「動いた」先にあるからだ。
動いて、やりつくしてない限り、人は「待つ」ことは難しい。
まだ、自分の力で、できることがあるのではないか。
その想いが残っていると、やはり「待つ」ことは難しいものだ。
それは、誰かを信頼することと、構造的には似ているのかもしれない。
人事を尽くして天命を待つ。
あまりに使い古され、手垢のついたその言葉が、想起される。
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人事を尽くしても、尽くさなくても。
ふと目を外に向ければ、季節は移ろい、流れていく。
動けなくなるまで、動いたのか。
ベストを尽くしたのか。
そう、自責の念が浮かんでくることもあろう。
けれど、季節の流れは、そうした念をやさしく昇華してくれる。
動けなかったとしても、それがベストだったんだ、と。
新しい季節、新しい今日の訪れとともに、開いた花を眺めるように。
自らの一日を、愛でよう。
それが、待つことかもしれない。