急に、暖かくなった。
20度近い気温にもなると、初夏を思わせる。
これだけ急に外気温が上がると、身体もどこか気怠くなるようで、ぼんやりとしてしまう。
時に、霞始靆/かすみはじめてたなびく。
その字のごとく、春霞がはじめてたなびき始めるころ。
ぴりっと張り詰めたような真冬の冷気は、もうどこにもなく。
氷が溶けるがごとく、ゆるやかな春の陽射しのように、ぼんやりとした陽気が感じられるようになった。
春。
そう聞くと、よろこばしいことを思い浮かべる。
けれど、陽あるところに、陰もあるものだ。
寄り添うように、背中合わせのように。
ねむりからのめざめ、あたたかでゆるやか、うれしい、たのしい。
そんな春だけれど、冬の間に溜めた毒気が出てくるものだ。
春になると、情緒が不安定になることが多いのは、生活環境の変化が多いこともあるが、そんなことからくることも、あるのかもしれない。
ふきのとう、こしあぶら、タラの芽、ノビル、セリ。
だからだろうか、苦みやえぐみが特徴的な山菜が、旬を迎える。
苦みやえぐみには解毒作用があり、冬のあいだに縮こまった身体に刺激を与えてくれると聞く。
毒が出ることを、厭わないことだ。
毒も、春霞も、よろこびも、梅花も、ただ流れていくものであり。
それを嫌い、押しとどめようとするから、ややこしくなる。
毒があることを、認めることだ。
ただ、それはあるだけ。
誰のこころの内にも、あなたのこころの内にも、わたしの内にも。
わたし自身は、春になると悲しい記憶を、どうしても思い出してしまうようだ。
ぼんやりとした春霞の景色は、痛みとともに想起される。
それも、また、浮かんでは消えていく。
どうこうしようと、しないことだ。
春霞が、たなびき。
そして、流れていくように。
どうこうしようと、しないことだ。
毒が、痛みが、苦みが、あることを認めること。
それは、この世界に自分が存在することを、認めることと、どこか似ている。