70億の人がいれば、70億の「愛し方」があります。
その愛を受けとるための「器」を広げるには、どうしたいいかを考えてみます。
1.「言わない」という愛の形
昨日の記事では、「言わない」ことで伝えようとする愛の形もある、というテーマでお伝えしました。
「言わない」ことで伝えようとする愛の形も、ある。 - 大嵜直人のブログ
「罪悪感」のなかには、「私は汚れている・穢れている・毒である」という類のものがあります。
そうした「罪悪感」があると、自分を表に出せなくなりますし、なかなか自分の気持ちを他の人に伝えることが難しくなります。
昨日の記事では、ペンキをかぶってしまった状態、あるいはインフルエンザのような感染症に罹患した状態にたとえてみましたが、もし自分がその状態になったら、他の人に接することを避けようとしますよね。
「私は汚れている」という観念もまた、同じように人の輪から自分を遠ざけます。
また、自分の気持ちや感情を表すことに申し訳なさを感じたりして、それを抑えつけようとしたりしてしまいます。
「大切な人に、自分の気持ちを言えない」という悩みがあるとき、そうした「罪悪感」が引き起こしている可能性があります。
「言えるようになるには?」といったことも大事ですが、昨日の記事では、そうした方法論以前の視点をご紹介しました。
それは、「気持ちを言えない」という自分を、自分自身が責めることをやめる、という視点です。
「気持ちが言えないこと」は、辛いことやしんどいことかもしれませんが、いけないことでも、間違っていることではありません。
むしろ、「『言わない』ことで大切な人を愛そうとした」、そう見ることができたら、「罪悪感」のストーリーに、愛を見つけることができるように思うのです。
「言わない」という愛の形も、ある。
昨日の記事では、そんなテーマをお伝えしました。
2.70億通りの愛し方
「愛し方」というのは、私たちにとってとても大切なテーマです。
昨日の記事では、自分自身の「伝えない」という愛し方を、いけないものとして否定してしまうことの悲しさについて書きました。
しかし、これは自分の「愛し方」に限った話ではありません。
むしろ、自分以外の誰かと、その「愛し方」をめぐって、天にも昇るような嬉しさを覚えたり、この世の終わりのような絶望を感じたりするものです。
私たちは、自分なりの「愛し方」で、大切な人を愛そうとします。
自分の「愛し方」とは、自分がそうして欲しい愛し方であり、それは多くの場合、自分がそのようにして愛された形です。
そう考えると、「愛し方」とは、その人が愛されてきた記憶であり、愛を求めてきた遍歴でもあります。
しかし、ここが非常にデリケートなところなのですが、その「愛し方」が、相手が望む「愛し方」であるかどうかは、分からないものです。
たとえば、パートナーが風邪に罹ってしまったとして。
「下手に自分もうつったら、相手は申し訳なさを感じてしまうだろうから、そっと一人にしておいてあげよう」と考えるのも、
「高熱を出して大変そうだから、ポカリと冷えピタと…風邪さんセットを用意して、できるだけ消化がよくて栄養のあるものを作ってあげよう」と考えるのも、
どちらも相手を想ってのことですが、相手が望む「愛し方」かどうかは、分かりません。
「甲斐甲斐しく看病してほしい」と望んでいるのに、前者の対応をされたら、「え、なに?私って、大事にされてない?」とすら、感じるかもしれません。
もちろん、「どうしてほしいか」というコミュニケーションを密に取れればいいのでしょうけれども、すべてがすべて、そうした意思疎通ができるわけでもないのは、皆さんご存じの通りかと思います。
世界の人口は70億人を突破したそうですが、70億の人がいれば、70億の「愛し方」があります。
その70億通りの「愛し方」のうち、どれを「ああ、これは愛だよな」と感じられるかは、その人の「愛を受け取る器の大きさ」にかかっているのでしょう。
もちろん、その器が大きければ大きいほど、自分が愛されていると実感できることが増え、幸せを感じることも多くなるのでしょう。
3.「罪悪感」を癒す恩恵
では、その愛を受けとる器を大きくしていくには、どうしたいいか。
ここでは、二つのポイントをお伝えしてみたいと思います。
一つには、自分が持っている「愛し方」の観念を知ること。
たとえば、「こうされたら、愛されていると感じてうれしい」ことを、リストアップしてみます。
感謝や愛情のある言葉をかけられたら、うれしい。
記念日を覚えていてくれると、うれしい。
否定せずに話を聞いてくれると、愛されていると感じる。
…などなど、できるだけたくさんリストアップしてみます。
そこでつくったリストは、パートナーや大切な人と共有できる素敵なリストにもなりますが、反対に「こうじゃなきゃダメなリスト」にもなります。
「記念日を忘れたら、愛されていない」というように、そのリストは私たちの「愛の器」を制限してしまうことにもなるわけです。
だから、「そのリストに出ているもののほかに、愛し方はないだろうか?」と想像してみることは、私たちの「愛の器」を広げてくれるものです。
自分の「愛し方」のリストをつくってみて、そこにないものに目を向けてみるというのが、一つ目のポイントです。
もう一つは、ここのところテーマを続けている「罪悪感」です。
これまで何度もお伝えしていますが、「罪悪感」の裏側には、必ず愛が眠っています。
それは、「大切な人に、こうしてあげたかった(けれども、できなかった)」という想いです。
自分が持っている「罪悪感」と向き合い、それを癒していくことは、そうした愛の部分にも目を向けることができます。
ものすごく乱暴な表現かもしれませんが、そうしたプロセスを経ると、
「これは愛だけれども、あれは愛じゃない」
から、
「これも愛だし、あれもまた愛なんだな」
という風に見方が変わっていくものです。
そう、それは「愛を受けとる器」が広がっているわけです。
「罪悪感」と向き合い、それを癒していくことの、とても大きな恩恵の一つです。
自分は、何に「罪悪感」を感じているのか。
それは、どういったできごとや経験から、罪の意識や申し訳なさを感じているのか。
そしてそれは、大切な人に何をしたかったのか、伝えたかったのか。
…と、これはあくまで向き合い方の一つですが、そうして「罪悪感」を癒していくことは、私たちの愛を受けとる器を広げてくれるようです。
今日は、愛を受けとる器の広げ方、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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