よくビジネスでもなんでも、相手の立場に立ちなさい、お客様目線になりなさい、顧客の目線を忘れないようにしなさい、と言われます。
それは当たり前の話なのですが、なかなかそれが難しいことも事実です。
なぜ、それが難しいのかというと、愛を受け取らないと、他者目線には立てないからのようです。他者目線に立つことが難しく感じる方は、受け取ることが苦手なのかもしれません。
小さなプライドと拗ねで、かれこれ4か月近くも悶々としてきた、私の体験を書いていきます。
プロフィールページなどにも書いております通り、今年の2月から根本裕幸師匠のカウンセラー養成講座(お弟子さん制度)で学んでおります。
その中で、いつも根本師匠は、ブログを書くときに「お客様目線」、「顧客目線」を必ず持ちなさい、と言われます。
誰に届けたいのか。
誰に対して書いているのか。
読者にとって読みやすい記事か。
その記事を読者が読んで、どう思うのか。
ビジネスをする上では、当たり前の話だと思います。
しかし、なかなか私にはそれが今までできず、悶々としていたのですね。
ええ、かれこれ4か月ほどになります。
お客様目線に立つ。
それは仕事の上では、できるのです。
私は小売での店頭販売も、購買、営業も経験してきた中で、クレーム対応や交渉なども、諸々ありました。
「こう言ったら、相手はどう思うか。どのような反応を示すか」
「こういうふうにしたら、相手は手間が省けて喜びそうだ」
そういったことを考えるのは、割と日常的にしているように思います。
けれど、それを大嵜直人という個人の活動の中ですることに、極度に抵抗がありました。
それは、「会社のため、会社のこと」という大義名分から外れて、「自分の言うことを理解してもらう」、もっといえば「自分自身を分かってもらう」という努力だからです。
そのことに、深い抵抗がありました。
自分のことなんて、きっと分かってもらえない。
どうせ分かってもらえないなら、分かってもらわなくてもいい。
自分が好きなようにやっているのだから、それでいい。
そのような根深い観念が、私の心の底に澱のように横たわっていました。
2017年の8月から、ブログを書き始めました。
これで4年近く、毎日書いていることになります。
書き続ける中で、いろいろ変わっていきました。
自分の内面を綴ったものや、季節の織りなり、サラブレッドの美しさ、断酒チャレンジ…その内容もそうですし、もう一つの変化は文体です。
最初のころは、「です・ます調」で恐る恐る書いていました。
少し慣れてきたころに、「だ・である調」で変えました。
振り返ってみると、理由は二つありました。
一つは、憧れの作家や文筆家のエッセイが「だ・である調」であること。
もう一つは、少し自分を飾りたかった、大きく見せたかったこともあるのかもしれません。「だ・である」と言い切る、少し強い文体を使うことで、鎧を着ていたかったような気もします。お恥ずかしいのですが。
ただ、時折アクセルベタ踏みで書くことができたブログなどは、「だ・である調」の方がしっくりくるのも確かでした。
ただ、前述したカウンセラー講座を学ぶにあたって、新しくブログを立ち上げようかとも考えました。カウンセラーブログとして他者目線を考えたとき、「だ・である調」の文体は、都合が悪そうだと思ったからです。
学術論文なんかは、言い切るために「だ・である調」をよく使います。けれど、正誤善悪を決めつけないことが大切であるカウンセラーとして、ブログを書くのであれば「だ・である調」は都合が悪い。
いまさら文体を変えるのには抵抗があるし、かといって新しくブログを立ち上げることにも抵抗がありました。
少なくとも、「カウンセラー大嵜直人」としての活動は、これまでの大嵜直人の歩いてきた道の延長線上にあると思うからです。
「カウンセラー大嵜直人」を売るのであれば、それはいままで書いてきた、歩んできたものの上にあってほしい。
書き始めのころの未熟な文章も考え方も、これまで晒してきた恥ずかしい失敗もヘドロのような内面の澱も、どれもこれもひっくるめて、連れていきたい。
そして、今日ここまで来れたのも、4年間ずっと書き続けできた文章を読んでくださり、そこに価値を見てくださった方がいらっしゃったからです。
そこを切り捨てて、「カウンセラー大嵜直人」を名乗ることはできなかった。
だから、新しいブログを立ち上げることはできませんでした。
その狭間で、気付けば4か月以上も悶々としておりました。
傍から見れば何ともない話かもしれませんが、それだけ、私にとって言葉というのは大切なものだったようです。
自分のことなんて、きっと分かってもらえない。
どうせ分かってもらえないなら、分かってもらわなくてもいい。
自分が好きなようにやっているのだから、それでいい。
先に、こんな観念が私の心の内面に横たわっていると書きました。
この状態というのは自分にだけ意識が向いている、自意識過剰の状態。この状態で、他者目線に立った文章を書こうとしても、無理だったのでしょう。
自分のことを分かってもらおうとするならば、まずは相手のことを分かろうとしないといけない。
相手のことを分かろうとするならば、相手が自分をどんなふうに想っているか、分かろうとしないといけない。
それは言い換えると、相手の想い、あるいは愛を受け取る、ということです。
それができないから、苦しいのですよね。
それができないのに、なおも与えようとするから、余計に苦しむ。
この状態を抜け出すための一つの方法は、「愛を受け取る」ことです。
どれだけ、相手が自分のことを理解しようとしてくれてきたか。
自分に対して愛を差し向けてきたか。
それに目を向けることで、初めて相手がどう考えているか、感じているかを想うことができるし、自分がどう考えているかを分かってもらおうとすることができます。
結局のところ、愛を受け取らないと、他者目線には立てないようです。
それが、二日ほど前から「です・ます調」で書いております。
なぜだか分かりませんが、ふっと、そう書くことを許せたのです。それは、少し愛を受け取れるようになったのかもしれません。
こういうのは、意識してできるものではなく、気付いたらカサブタが剥がれるように、そんな風に起こるものなのかもしれません。
もしこれからアクセルベタ踏みで自分の好きなように書きたくなったら、「だ・である調」で書くかもしれません。やっぱりGⅠ回顧とかはその文体の方がよさそうですし。
使い分けていいのだ、という単純なことに気づきました。
なんとまあ、不器用なことか笑
そんな亀のような歩みでおりますが、今日もここまでお読みくださって、ありがとうございます。
今後とも、よろしくお願いいたします。