大嵜直人のブログ

たいせつな何かをなくした心に、ともしびを。

文月ついたちの熱田さんを歩く。

少し時間が経ってしまいましたが、7月1日に熱田神宮を訪れました。

 

先月に続いて、曜日めぐりとスケジュールの都合で月初に訪れることになったのですが、やはり月初は参拝客が多いせいか、少し背筋の伸びる空気が流れているようです。

 

当日は早めに着いたつもりでしたが、駐車場がすでに満車寸前で、少し後から来た車は「待ち」になっていました。

 

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南門から入った参道にも、いつもよりもたくさんの参拝客が。

スーツを着た方が多いのが印象的。そういえば、4月1日に訪れたときは、リクルートスーツを着た新入社員と思わしき方も多かったのですが、この7月1日は年齢層の高い方が多いようでした。

「朔日参り」を会社でされているところも、まだまだ多いのでしょうか。

そういえば、前職でも一日は稲荷参りの行事がありました。

 

そうした習慣や行事というのは、合理的ではないように見えるかもしれないのですが、強制的に毎月一回、こうして参道を歩くというのも、ある種の効用があるように思うのですが、どうでしょうか。

「ためにする何か」というのは、それ以上のことを生みません。

情報をインプットする、何かのタスクをこなす、終わらせる…そういったこととはまったく関係のない時間で、蓄積された情報がつなぎ合わされ、変化していくことは、往々にしてあるような気がします。

 

以前に書評を書いた「いつも『時間がない』あなたに ―欠乏の行動経済学」の本を思い出されます。

そこでは、ゆとりや遊び、余剰といった意味の「スラック」を持つことが、結局のところ時間や資源を最適に利用するための秘訣である、と述べられていました。

 

神社を参拝するのは、何もしないことに近い。

いや、もちろん参拝する目的は、神さまに祈りをささげることは間違いないのですが、どこか「空白」「余白」に似たものを感じます。

 

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本宮では、めずらしく行列ができていました。

手を合わせ、頭を下げ、祈る。

老若男女、いろんな人が、同じようにしていきます。

 

多くの人が、同じことを積み重ねることで、練られていく空気というものがあるように感じます。

それは神社のような場所でなくとも、たとえばナゴヤ球場の応援席だったり、国技館の座席だったり、登山道だったりするのかもしれません。

 

積み重ねられることで、練られていく。

だから、神社を訪れるとすっきりとして背筋が伸びるのかもしれません。

 

そんな時間が、好きなのですね。

 

 

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梅雨の真っただ中らしく、降り出しそうな曇り空の下でしたが、何とか傘を開かずに参拝を終えることができました。

今月もまた、がんばっていきます。