大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

なんにもしないをしに行く、師走の熱田さん。

早いもので、2023年も最後の月になりました。

お師匠も走るという、師走。

もう12月かという想いと、慌ただしさが入り混じる月です。

何かと気ぜわしくなる時期ですが、体調を崩さないように、気を付けたいものです。

さて、そんな12月に、また熱田さんを参拝することができました。

いつもの南門から。

冬晴れで太陽が見えており、そこまで寒さは感じない朝でした。

しかし、木々の合間から見える空の色は、もう澄んだ冬の色で。

これから、凛とした空気を纏っていくのでしょう。

この日はついたちということもあり、いつもよりも参拝される方の姿が多かったように思います。

玉砂利の音を聞きながら、参道を歩いて拝殿へ。

いつも、特に何か具体的なことを祈ることはなく、ただ今日ここに来れたことへの感謝を。

指示的な祈りと、非指示的な祈り。

非指示的なそれは、言ってみれば何もありません。

その空白を受け入れてくださるスペースがあるのが、熱田さんであり、神社のおおらかさというか、ありがたさのように思います。

絵本の「くまのプーさん」の最後でも、そんな場面がありました。

「そうだね、ちょっとそれをしに出かけようとしているときに誰かが、『何をするの、クリストファー・ロビン?』と声をかけて、『いや、べつに何も。』と言って、それをしに行く」

クリストファー・ロビンが、最後にそんなことを言っていました。

プーさんが、それに「いま、ぼくたちがしているようなことだね」と答えるのも、実に味わい深いものです。

なんにもしないことを、する。

こう書くと、神社を訪れることにしても、「リラックスできる」とか、「頭の整理になる」とか、「清々しい気持ちになれる」とか、そういったことを想像してしまいますが、そうじゃないんですよね、きっと。

それらのこと自体が、すでに「なにかをしている」ことのように思います。

それは目的があって、していること。

だから、「なにもしないこと」じゃない。

「なにもしないこと」とは、かくも難しいものかもしれません。

しかし、神社には、確実にその余白というのでしょうか、そういったものがある気がします。

それは、あまりほかの場所では、ないもののように感じるのです。

だって、買い物をする、野球を観る、宿泊する…みんな、なにかをしにどこかへ行くのでしょうから。

でも、ほんとのところは、だれもどこにも行かないのかもしれません。

参道には、もう年末年始の準備が。

卯年の2023年も、過ぎ去ろうとしています。

来年は、辰年。

「辰」といえば、ドラゴン。

ドラゴンといえば、中日ドラゴンズ。

来年は躍進するといいなぁ、と思いながら、帰りの参道を歩くのでした。

また、ここを訪れるのを楽しみに、師走もがんばっていきたいと思います。