大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

ストレッチ日記 ~身体という、不便かつ愛おしき存在。

さて、またここのことろストレッチを続けております。
やはり、終わった後のスッキリとした感じと達成感は、格別なものです。

とはいえ、ストレッチをしていると、自分の身体の硬さ、ぎこちなさを痛感します。
歳を重ねるとなおさら感じるのですが、すぐに硬くなってしまったり、無理をすると不調になったり、不便なものだなと思うのです。

深呼吸をしながら、そんなことを考えていると、なぜ身体があるのだろうと考えたりもします。

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考えてみれば、身体というのも不便なものです。
それがあればこそ、誰かと会うためには自宅を出て、電車に揺られて、物理的な距離を縮めていかないといけない。
そして、同じ時間を共有しないといけない。

もちろん、その制限を超えていくために、メールや電話、あるいは画像を介してのコミュニケーションができるような技術が発達しました。
その恩恵によって、離れた誰かとでも、コミュニケーションを取ることができるようになりました。

けれど、そもそも身体を持ったことで、それが必要になったとも思えるのです。

遠い遠い、はるか何十億年もの昔。
海に溶けた塵なのか、なにか淀みのような部分があって、そこから原始的な生命が生まれ。
途方もない時間をかけて、いろんな生命の形になっていったと聞きます。

だとするなら、なぜ最初にその生命になろうとしたのでしょうか。
そこには、意思のようなものが働いていたようにも感じます。

なぜ、身体を持ち、分離しようとしたのか。
とても、不思議に思えるのです。

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ふとした瞬間に、ここにはいない誰かのことを思い出す。
あるいは、ふっと故人のことをありありと感じたりする。

そんなとき、その誰かと、何らかの形でつながっているようにも感じられます。

もし肉体、あるいは身体がなければ、もっと簡単につながれるのでしょうか。
だとするなら、なぜそうした制限としての身体を持つことを、私たちは選んできたのでしょうか。

身体があればこそ、誰かと会うためには「いま、ここ」を共有せねばなりませんし、外界と自分を分離することにもなります。

そんな不便なものを、どうして持とうと思ったのか。

とても不思議なのですが、ストレッチをしながら緩んでいると、どうもこの不便で制限のある身体が、いとおしく感じられてくるのが不思議なのです。
その不便さと制限が、どうしようもなく、生きていることを感じさせてくれます。

そんなよしなしごとを考えながら、身体を伸ばしていると、とても心地がいいのです。