「このまま負けたままだったら、与田が見れないじゃないか」
幼い私は、父にそう抗議した記憶がある。
父に連れられてナゴヤ球場を訪れるのが、幼い私の格別の楽しみだった。
しかし、観戦に行っても、お目当てのスター選手が見れないときは、悔しいものだ。
150キロ後半を記録するスピードボールを武器に、彗星のように登場した与田剛投手。
その剛速球をぜひ生で見たいと願うのだが、与田投手は「抑え」。
チームが勝っている最終盤でないと、登場しないポジションだ。
当然ながら、ドラゴンズが負けていれば、登板する可能性は低い。
幼い私は、ドラゴンズが負けている試合展開に、与田投手の剛速球が見られないことを危惧して、父に文句を言っていたのだろう。
言ったところで、どうにもならないことは、幼い私でも分かっていただろうが。
父は、いつものビールが入った赤ら顔で、笑っていた気がする。
振り返ってみると、与田投手のデビューが1990年。私が10歳のころだ。
与田投手は、鮮烈なデビューから抑えに定着し、新人王と最優秀救援投手のタイトルを獲得した。
しかし、1990年のドラゴンズの最終成績は、リーグ4位。
今年と同じ、Bクラスだった。
中日ドラゴンズが、2021年シーズンを終えた。
昨年は、球団最長となっていた7シーズンにおよぶBクラスの歴史に終止符を打ち、8年ぶりのAクラスとなる3位。
与田監督3年間の集大成となる2021年の今年は、さらなる飛躍が期待されたが、再びBクラスに逆戻りとなる5位が確定した。
12球団随一のチーム防御率を誇るなど、投手陣は奮戦したが、いかんせん点が取れなかった。
レギュラー野手陣の不調、補強の失敗、即戦力よりも将来性を見据えたここ数年のドラフト戦略、相次いだ主力や若手の怪我、グラウンド内外の思いもよらぬアクシデント…外で観ているファン以上に、与田監督にとっては口惜しいシーズンだったのではないかと思う。
それでも。
与田監督のコメントで、誰かを責める内容を見たことがなかった。
勝負事なのだから、勝つこともあれば負けることもある。
相手がいる以上、同じことをしても結果が出ないことなど、当たり前のようにあるのが、プロの世界なのだろう。
勝って能書きを垂れるのは、誰にでもできる。
負けたときのコメントに、その人の人間性が出ると私は思う。
翻って、与田監督の敗戦の弁は、いつも同じだった。
「次を見据えて、しっかり準備していく」
判で押したように、毎回同じ台詞に、正直物足りなさと苛立ちを感じてしまうこともあった。
今になって思うが、それはきっと、私にとって「何も言わずに見守る父」への、ささやかな反抗と同じ構図だったのだろう。
与田監督は、選手の誰かを責めることを一切しなかった。
不調に陥った主力選手について聞かれても、
「復調を期待して使っている」
というような事しか、語らなかったように思う。
そのコメントの裏に、どれほどの言葉を呑み込んでいたのか。
どれほどの忍耐と我慢と、そして愛があったのだろう。
シーズンを終えたいま、それを想う。
勝っても、負けても。
我々ファンにできるのは、応援することだけだ。
それは、プレイヤーではない監督とい仕事と、本質的には変わらないのかもしれない。
活躍しても、失敗しても。
選手を信頼し続けることだけだ、と。
そして、与田監督は「見守る」という信頼の仕方をされてきたように、外から見ている私は感じる。
それは、もしかしたら。
私の亡き父の愛し方と、似ていたのかもしれない。
ドラゴンズの戦いを見守りながら、いつしか与田監督の器の大きさ、優しさに触れていくような、そんな感覚があった。
偉大なる父性とも呼べる、そうしたものがあればこそ。
低迷していた大野雄大投手の復活をはじめ、柳裕也投手の覚醒や小笠原慎之介投手の台頭、そして不敗神話を誇った鉄壁のリリーフ陣など、リーグ最強とも称される投手陣を整備できたのだろうとも思う。
「勝ち負けは兵家の常」とは言われるが、それ以上に大きなものを、与田監督には見せて頂いたような気がする。
何より、長い低迷からの再建期という難しい中、3年間チームを率いてくださった与田監督には、感謝しかない。
10歳の私を魅了した、剛速球。
ナゴヤ球場のスピードガンが表示される球速を見るワクワクは、特別なものでした。
あれから長い時間を経て。
不惑を過ぎた私にも、与田監督はたくさんの光を見せてくださいました。
あらためて、与田監督、おつかれさまでした。
そして、3年間ありがとうございました。