年々、桜の開花が早くなっているようで、東京ではもう開花したとのニュースがありました。
何でも、東京の開花基準になるのは、九段の靖国神社の桜だそうです。
そういえば、先般東京を訪れたときに、靖国にも寄らせていただきました。
あの境内の桜の木のどれかが、東京の「基準」になる桜だったのでしょうか。
それはともかくとして、観測史上、最も東京の桜の開花が早い日(1位タイ)だったそうです。
感覚的には、半月は早いような気がします。
もう少し暖かくなって、春休みが始まったあたりで、ようやく咲きはじめるような、そんな感覚がありますが、それとはずいぶんとずれているようです。
桜の色は、どこか入学式の情景と結びつきます。
あの淡い色が、新しい出発を祝うのが、何より美しい情景に感じるのです。
ただ、こんなにも開花が早くなると、4月まではもたないのかもしれません。
桜に限らず、ですが。
季節のめぐりと、心の情景の移ろいは、どこか関連しているように思うのです。
私たちは、どこか心の情景が、一定であるように錯覚してしまうけれども。
春の風景と、真夏の情景と、見える景色が異なるなかに、やはり私たちの内面もまた一緒にめぐっていくような、そんな気がします。
自分の内面の記憶をたどると、そこに季節の彩りがあるようです。
それは、嬉しい記憶であっても、悲しい記憶であっても。
暑ければ、汗腺が開いて汗をかくように。
心地よい季節には、伸びをしたくなるように。
私たちの心の情景は、一緒にめぐっていくように思います。
そう考えていると、ふと、以前に熊野を訪れたときに見た桜が、思い浮かびました。
あれは、3月の中頃だったでしょうか。
帰りの道中で、まさに満開の桜を見ることができました。
「こんなに早い時期に桜を眺めることができて、ラッキーだな」と思ったものでしたが、考えてみれば、その土地に住んでいる方々にとっては、それが当たり前なのでしょう。
北国の人に聞けば、桜はゴールデンウイークのころの花、と答えるかもしれません。
入学式と桜を結びつけるのも、私の勝手な思い込みともいえます。
入学式に桜が咲いていてほしいな、というのも、ある種の傲慢さ、といえるかもしれません。
桜も、ほかの花も。
ただただ、そこに咲くだけです。
そこに意味を貼りつけるのは、いつだって私でしかありません。
目の前のものを、ただそのままに受け入れ、そして、愛でること。
私にできるのは、ただそれだけなのかもしれません。
花は誇らず、ただ咲くのみなのですから。
そして、私自身も、そのように在りたいと願うのです。