先日、息子と公園でキャッチボールをしてきました。
公園で遊んでいる子どもたちを見ると、野球とサッカーが半々くらいの感じでした。
私が息子くらいのときには、野球が多かったように思いますが、これも時代なのでしょうか。
捕っては投げて、投げては捕って。
夕暮れ時の公園には、子どもたちの声と、ボールの音が響いていました。
5時半を回っていたでしょうか。
ずいぶんと、日が長くなりました。
オレンジ色に染まる空と、それに照らされた公園の土と。
息子とキャッチボールをすると、いつも心は幼い頃に飛んでいくようです。
めずらしく、祖父とキャッチボールをしたことを思い出していました。
私の祖父は、町工場を経営していました。
いつも工場の隅に鉄の切りくずが積まれていたのですが、油のついたそれが、キラキラと虹色に光っていたのを思い出します。
祖父は、私が小学校の高学年くらいに、その工場をたたんで引退しました。
もう、いい歳だったのもあるのですが、バブル崩壊で景気が悪くなったのもあったのだと思います。
工場にあった設備や機械を引き渡して、隠居していました。
早くに祖母が亡くなっていたため、一人寂しかっただろうな、と思うのです。
週末になると、私の実家にやってきて、夕食を一緒に摂ることが多かったように覚えています。
いつものように、祖父がやってきた週末のある日でした。
実家の前の空き地で、私が壁に向かってボールを投げていました。
どういう話の流れだったのか、めずらしく祖父とキャッチボールをすることになりました。
当時の私といえば、キャッチボールをしてもらえる相手に、飢えていました。
運動神経が鈍く、球技の下手なうえ、内気な私でしたので、同年代の友人と草野球をする機会が、あまりありませんでした。
私がボールを投げる相手といえば、いつも家の前の空き地の「壁」。
そこに投げては、跳ね返ってくるボールを取って、また投げて。
そんなことを、いつも一人で繰り返している子どもでした。
父は仕事に忙しく、あまりキャッチボールをしてもらった記憶がありません。
学校も会社も土曜日まであったあの時代のこと、それもそうなのかもしれません。
そんな私でしたから、キャッチボールの相手をしてもらえるのは、うれしかったのでしょう。
祖父を相手に、一生懸命に投げては、捕って。
それは、楽しい思い出でした。
あたりも暗くなって、もういい時間という頃合いになり。
祖父は、私を座らせました。
祖父がピッチャーで、私がキャッチャー。
少し速い球を、見せたかったのでしょう。
祖父が大きく振りかぶって投げたボールは思いのほか早く、私はそれを捕れずに、顔に当ててしまいました。
慌てたのは、祖父の方でした。
ごめんな、ごめんな、と何度も私のことを気遣ってくれました。
軟球でしたから、そんなにひどいケガにもならなかったのですが、夕食のときにも祖父は申し訳なさそうにしていたことを覚えています。
いまは亡き、そんな祖父とのキャッチボールを、思い出していました。
それはどこか、あのボールを捕っていれば、というほろ苦い申し訳なさとともに、思い出されるのです。
いつか、息子もまた、私とのキャッチボールを思い出すときがあるのでしょうか。
そのとき、どんな情感とともに思い出すのか、少し見てみたい気もするのです。