「心を豊かにするには、草花の名前を覚えるといい」
昨日の記事で書いた言葉について、もう少し考えてみたいと思います。
草花の名前を覚えると、心が豊かになるのは、昨日書いたとおりですが、今日はまた違った視点で見てみたいと思います。
ひとつの花。あるいは、一本の草木。
世界のなかの、小さな存在。
それをどう扱うかは、結局のところ、自分自身をどう扱うかに大きく関わってくると思うのです。
心理学的に見れば、「投影」の心理ともいえますよね。
取るに足らない存在。
どうでもいい存在。
誰も見ていないもの。
路傍の花を、そのように扱うならば。
それはとりもなおさず、自分自身をそう扱うことと同義になってしまうのでしょう。
もちろん、意識的にそう扱っている人は少ないかもしれません。
ただ、忙しかったり。
ただ、目に入らなかったり。
ただ、無意識にそうしているだけなのかもしれません。
けれども、そうした存在に目を向け、それを慈しむことができるほどに、心は豊かになります。
そして、その扱い方は、自分の扱い方として返ってきます。
そのベクトルは、両向きです。
もし、自分を大切にできていないから、小さな存在に目が向くことがないのが、真実であるならば。
そのことで、自分自身を責めることはありません。
そうであるならば、その鏡を逆から見ることもできるからです。
自分を大切にできないとき、小さな存在に目を向け、それを慈しむことができれば、それはいつしか、自分を大切にすることにつながります。
結局のところ、世界とどう関わるかは、自分自身をどう扱うかと同じなのですから。
それは、どちらの側から見ても、同じことです。
ほんの小さな存在。
風に揺れる、枯れ葉。
明日にも散りそうな、小さな花。
あるいは、いつも変わらずにそこにある樹木。
そうした存在に目を向け、慈しむこと。
そうした存在が、そこにあることに喜びを感じること。
それらはすべて、自分自身がいま、ここにいることを許し、そしてそのことがかけがえのない奇跡だと感じることにつながると思うのです。