4月に入りました。
「春爛漫」という表現が、まさにぴったりの陽気。
お花見日和、とも言えるかもしれません。
足元に目をやれば、冬を越してニョキニョキと草が伸びはじめ。
見上げれば、霞のかかったような空が広がり。
このどこかぼんやりとして、輪郭のにじんだ感じが、私にとって春を強く感じさせてくれます。
それは、このまさに「春爛漫」という時期に、最も強く感じられるようです。
もう少しすると、天地万物が清らかな「清明」の時候に移り、すぐに心地よい新緑の季節がやってきます。
いまの時期が、いちばん春らしい、といえるのかもしれません。
草木が芽吹き、生きとし生けるものが動き始める、春。
その時期に、このぼやけた感触があるのは、実に興味深いものです。
同じような気温の秋の空気は、どこまでも澄んで、呼吸をするだけで身体が清浄になる気がするのに。
その反対に、春のぼんやりとした感じは、どこかそれだけでエネルギーを使うというか。
あるいは、どこか混沌としているというか。
生命が芽吹く時期と、それが終わりに向かう時期との違いなのかもしれません。
考えてみれば。
人の生を季節になぞらえたときに、春の季節は、混沌としているようにも思います。
この世に生を享けてから、思春期を過ぎるあたりでしょうか。
もちろん、残暑厳しい秋や、台風がやってくる秋なんかも、ありますけれどね笑
それでも、やはり生命の芽吹きというのは、混沌とともに訪れるようにも思うのです。
そう考えてみると。
先が見えなくて、視界がぼやけているとき。
わけのわからない、混沌や混乱のなかにいるとき。
そうしたときが、もっとも生命の力が芽吹いているときのように思うのです。
それは、自分自身の設定した枠の、外に出ようとしているときとも言えるのですから。
分からなくて、混沌として、あたりまえ。
この春の季節のように、新しい世界を開こうとしているのですから。
いま、先が見えなくても、だいじょうぶ。
先々が見通せなくても、だいじょうぶ。
混乱や混沌のなかにいても、だいじょうぶ。
この麗らかな春もまた、同じようなものなのですから。
混沌のなかにあるときこそ、新しい生命は芽吹きます。
ただ、芽吹く草木を眺めるように。
ただ、霞がかった空を見上げるように。
過ぎゆく春に、身を浸すように。
あなたはただ、そのままでいいんです。