大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「犠牲」の心理が生む「幸せになることへの怖れ」と、そのゆるめ方。

人は、不幸になるよりも、幸せになることを怖れます。

それは、幸せになったら、もっと大きな犠牲を払わなくてはならない、という観念と密接に絡んでいるようです。

しかし、自分が楽しむこと、そして愛を受けとることが、その怖れをゆるめてくれます。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.サボタージュとは、いま以上に、犠牲を払うことへの怖れ

まったく新しいレベルで、まさに成功しようというときに、しばしばサボタージュが起こります。

どうやらその成功は私たちには、支払う犠牲が大きすぎるように思えるのです。

みんなには成功しているように見られていても、自分ではその代償としての犠牲を感じているのです。

 

つまり、私たちにとって「成功」とは、さらに大きな「犠牲」を強いられるものにしか思えないのです。

そこで「もうこれ以上、とても無理だ」「いま以上にはとても引き受けられない」と感じ、これから成功しようとしていることをだいなしにしてしまうのです。

 

犠牲になるのをやめ、自分ですべてを取りしきろうとすることはやめましょう。

あなた自身が息をぬいて人生を楽しむ余地をもっとつくれば、未来に一歩を踏みだし、新しいレベルで成功する勇気が大きくわいてくるのです。

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.263

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2.幸せになることへの怖れと犠牲

人は不幸になることよりも、その逆を怖れる

今日のテーマは、「幸せになることへの怖れ」でしょうか。

私が心理学を学びはじめたころ、「えぇっ!!??」と驚いたのが、この「幸せになることへの怖れ」でした。

幸せが怖い?

日本語としては、おかしな感じがしますよね。

「幸せ、いるかい?」

そう聞かれたら、「はい、もちろん!」と答えるのが、当たり前。

普通に考えれば、そうかもしれません。

けれども、人の心は、そんなに単純でもないんですよね。

「幸せ、いるかい??」

両手にあふれんばかりの幸せを持って、そう言われたとしても。

心の深い部分では、「いや、そんなん怖い」「いまのままがいい」「なんかダマされそう」という感情を持つのが、私たちなのかもしれません。

人は、不幸になるよりも、幸せになることの方を怖れる

それは、心の深い部分で起こる反応なので、意識できないことも多いものです。

私が実感したのは、カウンセリングを受けている中で、「いま、自分の望むように問題が解決しちゃっても、ほんとに大丈夫?」という問いかけを受けたときです。

「当たり前じゃん!」と、頭では反応するんです。

「そのためにカウンセリング受けたりしてるんだから!」とも。

けれども、カウンセリングを受けて、感情が開いた状態で、その解決した情景を思い浮かべると、ぞわぞわっと、めっちゃ身体が拒否反応を示すんですよね。

「あ、やっぱりイヤ」「うわ、めっちゃコワい」と。

「これが、幸せになることへのなんとやら、か…」と、実感をともなって理解した瞬間だったのかもしれません。

これは、引用文では「サボタージュ」と表現されますが、いたるところで現れる、私たちの心理のようです。

メジャーデビューが決まったのに解散するロックバントとか、
浮気したパートナーとヨリが戻りそうになったとたんに、自分が浮気してしまうとか、
周りから温かくされると、逆ギレしてしまうとか、

いろんなパターンで出てくるものです。

もう、これ以上は「犠牲」を払えない

「幸せになることへの怖れ」

その怖れを形成するのは、私たちの「犠牲」の心理のようです。

私たちにとって「成功」とは、さらに大きな「犠牲」を強いられるものにしか思えないのです。

どこかで、私たちは「成功」とは「犠牲」と引き換えに得るもの、という意識があるのでしょう。

それは、恵まれることへの罪悪感からと見ることもできますし、時代・社会的な通念からきていると見ることもできるのでしょう。

いずれにしても、「犠牲を払わないと成功しない」というのは、多くの人が無意識的に持っている観念のように思います。

そして、「成功とは、払った犠牲の大きさに比例する」という観念もあると思います。

それが、正しい場合もあるのでしょう。

「青春の時間を犠牲にして、野球に打ち込んだから、甲子園に出場できた」というように。

だからこそ、私たちは幸せになることを、怖れるのでしょう。

そして、その幸せが大きければ大きいほど、そこにくっついてくる怖さも、また大きくなるのかもしれません。

「そんなにも大きな幸せが来たら、とんでもない犠牲を払うことになる」

「もう、いま以上には犠牲を払えない」

「だから、もうこれ以上の幸せはいらない」

しかし、そうではないことも、たくさん世の中にはあるのだと思います。

「多大な犠牲を払ったけれど、今回の恋愛は終わりを告げた」

「そんなに犠牲を払っていないけれど、このプロジェクトはうまくいった」

そのどれもが、真実なのでしょう。

真実は、たくさんあっていい。

「犠牲を払った分だけ、成功する」

それを信じてもいいし、それ以外の真実を信じてもいい。

そう思えると、少し幸せになることへの怖れも、緩むのだと思います。

3.自分が楽しみ、受けとること

犠牲をやめるためには、楽しむこと

私たちの多くが持つ、「幸せになることへの怖れ」。

その原因となる、「成功には犠牲が必要」という観念。

その「犠牲」をすることをやめるためには、自分が楽しむこと、そして愛を受けとることが大切なようです。

犠牲になるのをやめ、自分ですべてを取りしきろうとすることはやめましょう。

あなた自身が息をぬいて人生を楽しむ余地をもっとつくれば、未来に一歩を踏みだし、新しいレベルで成功する勇気が大きくわいてくるのです。

引用文にもこうありますが、まさにその通りなのでしょう。

 

かつての私は、勤めていた会社を辞職しました。

何か不満があったわけでは、ありません。

その逆で、周りの人や環境などは、恵まれすぎていたとさえ思っていました。

「なぜ、辞めるの?」

社内、社外の多くの人から、そう聞かれました。

しかし、私はうまく説明できなかったんですよね。

なんだかわからないけれど、これ以上、ここにいてはいけない気がする。

そう言うこともできず、お茶を濁していたと思います。

いま考えてみるとそれは、「幸せになることへの怖れ」であり、「また親密感への怖れ」でもあったのでしょう。

そう感じるのは、やはり私の中で、消化していない心の痛みがあり、それがゆえの「犠牲」をしていたのかもしれません。

引用文の中に出てくる、「いま以上にはとても引き受けられない」とは、当時の私の心理に近いように思います。

けれど、だからといって、それが悪いことでも何でもないとは思います。

そこからめぐりめぐって、ここでいまこうして、この文章を書いているわけですから。

「犠牲」をしてもいい。

ただ、「犠牲」は自分がどんどんしんどくなっていく。

それをやめるためには、自分が楽しむこと、そして周りの愛を受けとること、それが大切なようです。

自分が楽しむ、愛を受けとる、この二つは「犠牲」から最も遠いところにあるものですから。

スモールステップと積み重ね

もちろん、いきなりそれを100%でやろうとしても、難しいものです。

当時の「犠牲」バリバリの私に、「楽しんで!」「周りを頼って!」と伝えたところで、「楽しむとは…?」「頼れないから苦しいの!」と返されるのがオチでしょうから笑

0か100か、白か黒か、でなくてもいいんです。

49対51でいいんです。

グレーでいいんです。

日替わりで、いいんです。

ただ、どんなことでもいいので、「自分が楽しい」と感じることに、意識的であること。

朝のコーヒーの香り。
雨上がりの匂い。
ボールペンの書き味。
好きな言葉。

どんな小さなことでも、いいんです。

その「楽しい、好き、心地よい」を感じれば感じるほど、それは磁力となって、少しずつ大きなものを感じられるようになります。

そしてもう一つ、周りの人の愛を受けとること。

あまり難しいことでなくても、いいんです。

「ごめんなさい」「すいません」を、「ありがとう」に変えるだけで、いいんです。

ボールペンを拾ってもらって、「すいません」ではなくて「ありがとう」。

道を譲ってもらって、「ごめんなさい」ではなくて「ありがとう」。

周りの愛を、申し訳なくではなく、ニッコリ笑顔で受けとれるように。

そして、その小さなことを、積み重ねること。

そうしていくうちに、「犠牲」はゆるんでいきます。

考えてみれば、当たり前のことなのかもしれません。

ウォーキングと筋トレを積み重ねたら、生活習慣病の予防になるよ、というのと、同じように笑

でも真実とは、当たり前のように、私たちの目の前に転がっているのかもしれませんね。

 

今日は、「幸せになることへの怖れ」に寄せたテーマでした。

ご参考になりましたら、幸いです。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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