「喪失感」とは、何かを失ったときに感じる痛みです。
それは、私たちの生が儚いものであることを、思い出させるがゆえに、とても痛いものです。
しかし「喪失感」と非常に近い場所に、「創造性」もあります。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.「創造性」は喪失感を癒す薬
何かを失ったと感じると、暗い気持ちや怖れ、悲しみ、ときには罪悪感に入ってしまいがちです。
けれども、その状況を創造的になる機会として使うことができます。
すると喪失感からも解放されてしまうことでしょう。
つらいエネルギーのすべてをみずからの癒しのために変容させると、それはまわりに対する愛の贈り物になり、人々の喪失感の薬にもなるのです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.300
2.「喪失感」の陰と光
今日のテーマは、「喪失感」でしょうか。
誰しもが抱えることのある、この痛みについて考えてみたいと思います。
「喪失感」について
「喪失感」とは、読んで字のごとく、何かを「喪った・失った」と感じることです。
人は、何かを失ったと感じるとき、強い痛みを感じます。
とても大好きだった恋人との別れ。
失くしてしまった指輪。
大切な人やペットとの死別。
そうした経験は、私たちに悲しみや怖れを抱かせます。
時にそれは、「あのとき、こう言っておけばよかった」といって自分を責めるような、そんな罪悪感を感じたりもします。
そして、その「何か」とは、物理的なモノに限りません。
誰かと過ごした時間、
思い出すと切なくなる故郷、
もう見ることのできない風景、
あるいはそこに貼りついた情感…
そういった形のないものに対しても、私たちは「喪失感」をおぼえます。
私自身も、カウンセリングや文筆活動をしていく中で、この「喪失感」というのは、一つの大きなテーマです。
大切な人との離別や、破れた夢や希望、あるいは失恋…
そうした経験の痛みというのは、「喪失感」と密接に結びついています。
「喪失感」の痛みとは
さて、そうした「喪失感」ですが、いったい「喪失感」の何が、私たちを悲しませ、怖れ、慄かせるのでしょうか。
私たちは生きていく中で、いろんな「痛み」を経験します。
しかし、この「喪失感」の痛みだけは、特別なんですよね。
他の痛みとは、少し違う、というか。
これは、私だけに限った話なのかもしれません。
けれども、過ぎゆく夏を想うとき。
かつての故郷の風景を想うとき。
あるいは、今生ではもう二度と会うことのできない人の笑顔を想うとき。
そうしたときに感じる「痛み」は、どこか異質で、他の痛みとは違うのです。
それは私にとって、とても不思議に感じるのです。
いまの私が思うのは、「喪失感」の痛みとは、「もう二度と会えない/見ることができない」ことへの怖れと非常に近いのではないかと思うのです。
「喪失感自体が、何かを失った痛みなのだから、当たり前じゃないか」と言われるかもしれません笑
けれども、あらためて考えてみると、そうした「二度と会えない怖れ」とは、私たちが頭では理解しているけれども、どこか日常の中では忘れているものではないでしょうか。
二度と会えない怖れ、それは「生の一回性」、あるいは「不可逆性」とでも呼べるのかもしれません。
いま、まさにこの一分、一秒が不可逆であり、一回限りのものだ、と。
それをよくよく考えると、私たちの生とは、なんと不確かで、はかないものなのか。
されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。
朝には紅みがさしていた顔も、夕方には白い骨になってしまうのが、人間というものである。
かの有名な「御文」の白骨の章に書かれた、蓮如上人の言葉を引くまでもなく、私たちの生はあまりにも不確かなゆらぎの上にあります。
言い換えると、「喪失感の痛み」とは、私たちの生が、いかに不確かで、ゆらいでいる場所にいることを、否が応でも気づかされる痛みなのかもしれません。
はっと気づいたら、実はとんでもない剣が峰の上を歩いていたことに、気づかされる。
「喪失感」の痛みというのは、そうした痛みのように私には感じられます。
3.喪失感と創造性の近似
そのように考えてくると、「喪失感」の光の部分も見えてきます。
私たちは、日常のなかに埋没すると、どこかそれが永遠に続くように感じてしまいます。
今日が、もう二度と戻らない「かけがえのない一日」であること。
いまこの目の前にいる人と会えるのは、一期一会の奇跡であること。
そうしたことを容易に忘れて、生きることに飽きたり、倦んだりしてしまうのが、人の性なのかもしれません。
「喪失感」は、そうした私たちの生を、とても鮮明に浮き上がらせます。
いま、この瞬間に「当たり前」のことなど、一つもない。
途方もない奇跡の積み重ねの先に、この生がある。
それは、贈り物である、と。
それを自覚することを、「創造性」と呼んだりもします。
「創造性」とは、何も芸術活動に限った話ではありません。
朝起きて顔を洗うこと、
家族のために朝食をつくること、
一杯の紅茶を味わうこと、
移り変わる季節の空気を感じること、
愛おしい人を想うこと…
そうしたことすべてに、「創造性」は宿ります。
それは、授かった贈り物の価値を自覚し、自らの生を輝かせることだからです。
言い換えるならば、「喪失感」と近い場所に、「創造性」があるともいえます。
すべてのものごとには、光と影があります。
「喪失感」を味わったり、失うのではないかと怖れを感じるところ。
そこでこそ、人は創造性を発揮し、大きなギフトを周りに与えることができるのです。
私にとって「喪失感」とは、ずいぶんと長いこと抱え、見ないようにして、それでいて、いつも心のどこかに貼り付いていた感情のように感じます。
そうした「喪失感」があったとしても。
そこから創造性の光を発することができる。
少なくとも、私はそう信じていますし、「喪失感」を抱えている方に、そうお伝えしていきたいと思っています。
今日は「喪失感」と創造性について、お伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
〇大嵜直人のカウンセリングの詳細はこちらからどうぞ。
※ただいま満席となっております。
※次回10月度の募集は9月26日(月)に開始の予定となります。
〇カウンセリングのご感想のまとめはこちら。