何かを失ったとき辛いのは、その相手に「執着」しているときです。
そして「執着」とは、「無価値感」が引き起こします。
だからこそ、自分の価値を信じることは喪失体験を癒し、つながりをつくることができます。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.心から価値を認めているものは、失うことがない
私たちはだれでも何かを失ったり、だれかに見捨てられたり、またはあまりに早いまわりの変化についていけなくて、自分が被害者のように感じることがあります。
でも、あなたが心からその価値を認め、全面的にかかわっていることはあなたのものです。
あなたはどこかで、失った人やものの価値を認めていなかったのです。
だからこそ、そのことで苦しみを味わい、喪失感を体験するということは、そこに執着があったということです。
執着とは、自分には何の価値もないという、無価値感をうめあわせるために、自分の外側のものに価値を与えてしまうことなのです。
どんな場合も執着は真実ではありません。
それだけでなく、真実であるものさえ真実でなくしてしまいます。
私たちが執着すればするほど、自分の存在の中心からずれていき、妄想や犠牲や自己破壊をもたらします。
執着を自分の幸せの宝庫のように思いこみ、その源を安全に確保するためには、自分がコントロールしなければならないということを信じるのです。
自分の外側からやってくる幸せによって、心から満ち足りることはぜったいにありえません。
コントロールは防衛の一種ですから、将来の痛みにつながります。
それよりも、ほかの人や自分自身の価値を認めてあげるほうがずっと簡単なのです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.381
2.喪失感と執着の関係
今日のテーマは、「執着」でしょうか。
何度も扱ってきたテーマですが、それだけに心理学に限らず、日常的な会話のなかでもよく使われる言葉です。
そんな「執着」の心理について、また少し掘り下げてみたいと思います。
「無価値感」が「執着」を引き起こす
心理学における「執着」とは、ほとんどその語の持つ意味と同じです。
心が何かに囚われていて、それ以外に選択肢が無い状態の心理を指します。
その何かとは、パートナーだったり、仕事だったり、お金だったり、あるいは過去だったりするのでしょう。
イメージとしては、手のひらをギューッと握りしめているような、そんなイメージでしょうか。
固く握れば握るほど、握りしめているものはどこにもいかないかもしれませんが、新たに別の何かをつかむことはできなくなります。
同じように、「執着」していると、選択肢がないので、新しいチャレンジをしないようになります。
ある意味でそれは、心の防衛機能と見ることもできます。
防衛というと、何かから身を守ることですが、「執着」している心理が怖れるものは、何でしょうか。
その一つは、「無価値感」です。
自分には価値が無いと感じる、心の痛み。
「執着」は、その「無価値感」と密接に絡み合っています。
自分には価値なんか無いと感じるとき、人はどうするでしょうか。
そうですね、自分以外の外側に価値を見ようとするわけです。
「周りの人の価値を見る」というと、ポジティブな行為のように聞こえますよね。
けれどもこの場合は、「(無価値である)自分を貶めるために、周りの人に価値があると思い込む」という、自分いじめの一種といえます。
あるいは、自分が無価値であることと、周りの人に価値があることで、バランスを取ろうとする、と見ることもできます。
執着とは、自分には何の価値もないという、無価値感をうめあわせるために、自分の外側のものに価値を与えてしまうことなのです。
まさに、引用文にある通り、「執着」と「無価値感」には非常に密接な関係があります。
「執着」が生む「喪失感」
さて、そうした「執着」があると、「喪失感」もまた生まれます。
これは結構、耳の痛い話ですよね…あれ、私だけですかね笑
失った恋人、今生の別れのあった親しい誰か、過ぎ去った時間、あるいは失われた風景…そうしたものに、私たちは「喪失感」を覚えます。
しかし、それは「執着」があるがゆえに、「喪失感」も感じるというわけです。
そうはいったって、恋人と別れるつらさ、あるいは、親しい人とを喪うことの悲しさは、どうしたってあるじゃないか、と思いますよね。
私も思います笑
けれども、おそらく真実は、そう見えることとは反対の側にあるのかもしれません。
私たちが「喪失感」を感じるとき。
それは、本当の意味で、その相手や対象に、価値を見ていなかったのかもしれません。
「執着」の根底には「無価値感」があるのなら、自分ではなく周りの人に価値を見ているんじゃないの?と思われるかもしれませんが、その逆です。
「無価値感」があるからこそ、周りの人の価値をほんとうの意味で見ることができないのです。
なぜか。
自分の価値を、見ていないからです。
私たちは、自分の価値を見ることで、はじめて相手の価値を見ることができます。
「無価値感」から、相手に価値を見たとしても、言ってみればそれは「自分が無価値感を感じたいから、相手に価値を見ている」状態です。
「あなたって、こんなにすごいんだよ。でも、ほら、それに比べて私なんて、何の価値もないんの…」
相手の価値を見るとは、決してそうしたことを伝えるために、するわけではないはずです。
正しく自分の価値を見ていなければ、相手の価値を見ることもまた、難しいわけです。
本当の意味で、相手に価値を見ることができていたならば。
たとえ、別れや失うといった体験があったとしても、その相手とのつながりは、失われることはありません。
現実的には、もう会えなかったり、もう見ることができなかったりするかもしれません。
けれども、そうした現象面と、喪失体験の辛さや寂しさ、悲しさは、無関係なものです。
その相手と過ごした時間、つながっていた時間、あるいは心を通わせていた瞬間。
そうしたものは、失われることはありません。
誰も、それを奪うことはできません。
それを、時に永遠と呼んだりもするのでしょう。
3.だからこそ、自分の価値を見よう
さて、だいぶ説明が長くなってしまいました。
最後の結論は、ご想像の通り、いつもと同じです笑
喪失体験を生む「執着」は、「無価値感」からやってくる。
だとしたら、「無価値感」と向き合うことが、喪失体験を癒すカギになります。
それは、自分に価値を見ることです。
自分に価値を見るとは、誰かに比べてとか、100点満点中の何点とか、そんなことではありません。
自分自身が持っている、無限の価値を信じることです。
それは、永遠という瞬間の存在を信じることと、似ているのかもしれません。
どこまでも広く、どこまでも深い、その価値。
その無限の価値が、あなたのなかにあることを認めることです。
それは、「あぁ、そうなら仕方がない」というあきらめのような、降参するような感覚に近かったりします。
何かを失ったと感じて、つらいとき。
そんなとき、あなたは自分自身をとてもちっぽけで、価値など無いものとしてみているのかもしれません。
あなたは、そんなにも価値のない存在でしょうか。
決して、そうではないはずです。
あなたがこれまで歩んできた道で、どれだけの人が笑っていたか、覚えていますか。
あなたがこれまで話してきた言葉で、どれだけの人が喜んでいたか、知っていますか。
あなたがこれまで与えてきた愛で、世界にどれだけ光を与えてきたか、ご存じでしょうか。
それを、ほんの少しでも思い出すことができると、無価値感は癒えていきます。
そして、周りの人に真の意味で価値を見ることができ、喪失体験からつながりを取り戻すことができるようになるのです。
だからこそ、私はカウンセリングでは、どんなお話の中からでも、あなたの価値と、そして愛を見続けたいと思っています。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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