大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「拒絶」されたと感じるのは、「自分が」相手の行動を否定したとき。

相手に「拒絶された」と感じるとき、その主導権は相手にあると考えがちです。

しかし、私たちの心は、相手の行動を否定したときに、自分が「拒絶された」と感じるようです。

かくも不思議な「拒絶」の心理について、お伝えします。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.「拒絶された」と感じるのは、自分から遠ざかったときだけ

パートナーが自分の欲求から何かをしていて、その行動をあなたが否定したとしましょう。

するとそこではあなたほうが「拒絶された」と感じます。

傷つけられたと感じるのは、じつは人や状況や経験を否定した本人なのです。

 

傷ついた、拒絶された、胸がはりさけそうだ、などと感じたら、そういう思いに対して自分で責任をとれることに気づいてください。

遠ざかっていったのはあなたのほうなのです。

 

どんな事情があるにせよ、あなたのほうからパートナーに近づいていき、自分の価値判断を手放してコミュニケーションしましょう。

相手にただ与える時、傷ついたという気持ちは消えてしまいます。

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.96

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2.「拒絶」するのは、必ず自分の側である

常識とは相反するテーマ

このスペザーノ博士の本書には、常識的とは真逆のものの見方を提示してくれる箇所が、たくさんあります。

今日のテーマも、その最たるものではないでしょうか。

なんたって、「拒絶された」と感じるのは、それが自分から遠ざかったときだ、と言っているのですから。

「拒絶をする/しない」というのは、相手側に選択権があるというのが、常識的な見方だと思います。

「あの人に助けを求めたのに、拒絶された」

「面会したかったのに、受付で拒絶された」

…などなど、「自分はこうしたい」という意図がありながら、それを相手が拒む、というのが、拒絶の日本語としての意味ではないかと思います。

そこには、自分の意志はあるのだけれども、拒絶の判断は相手がするものだ、という意味づけがあります。

言われるまでもなく、当然ですよね。

握手を求めて差し出した手を、握りるかどうかは、相手が選択権を持っているのですから。

けれど、そうした常識は、心の世界では通用しないようです。

心の世界における「拒絶」のプロセス

「拒絶」は、相手の行動を否定することから感じるもの

引用文にあるとおり、本書では「拒絶」をこのように説明しています。

相手に何らかの欲求からの行動があって、それを自分が否定したとき。

そのとき、心は「拒絶された」と感じる、と。

事の発端は、振り出しは、自分にある。

自立的な人ほど、受け入れ難いのではないでしょうか。

自立的な人ほど、自分の中の正誤善悪の価値判断、いわゆる「正しさ」を後生大事に握りしめているからです。

そうした「正しさ」をもとに、相手の行動を「いい/悪い」と判断しがちです。

相手の行動を「悪い」と否定したとき、「自分は拒絶された」と感じるのですね。

自立が過ぎると、孤立してしまう理由は、こんなところからも説明することができそうです。

…と、こんなことを書いていると墓穴を掘りそうなので笑、話しを進めます。

もう少し、具体的にこのプロセスを見ていきましょうか。

パートナーシップにおける「拒絶」の例

今日のテーマのように、一見常識とは反するようなテーマは、パートナーシップのような、親密な間柄の方が、より分かりやすいのかもしれません。

例えば、パートナーが、何か新しいことを始めたとします。

SNSで見かけたアイドルの追っかけに、目覚めたようです。

その追っかけのコミュニティに入り、そのアイドルの魅力について語り、生配信の日程を心待ちにするようになりました。

何かを好きでいるということは、生活に彩りと潤いを与えます。

パートナーは、日々生き生きとして楽しそうです。

しかし、なぜかそれを見ている自分の心が、モヤモヤします。

「いい歳して、恥ずかしい」

「どうせ、すぐに飽きるさ」

「あんなことして、なにが楽しんだ」

パートナーが、その推しのアイドルのライブに出かけることになりました。

朝早くから、スキップをするようにして出かけていったパートナー。

玄関の扉が、がちゃんと音を立てて閉まりました。

なぜかその音は、なぜか相手からの「拒絶」に聞こえたような気がしました。

…いかがでしょうか。

具体的な例を挙げると、なんだか急に理解が進むような気がします。

ここまで単純な話ではないにしても、「自分の価値判断による否定」が、「拒絶」されたという感情を生むのは、ある程度、真実味を感じて頂ければ幸いです。

かくも、人の心の内面というのは、不思議なものです。

常識的なものの見方とは、時に反対の方が真実のようです。

3.アカウンタビリティの法則

自分が拒絶したのであれば、自分で責任をとれる

さて、そうした上で、引用文の中で非常に重要な一文があります。

傷ついた、拒絶された、胸がはりさけそうだ、などと感じたら、そういう思いに対して自分で責任をとれることに気づいてください。

この一文ですね。

「拒絶された」と感じるのは、自分が相手の行動を否定した時である、と。

もしそうであるならば、「自分で責任をとれる」と考えることができます。

振り出しは、自分にあります。

サイコロは、私自身が持っているのです。

これは、自分に主体性を持たせるという、非常に重要な考え方です。

「拒絶する」ことが、相手に主体性があるならば、私たちは何もできません。

拒絶されたら、ただただ悲しく、そして日々、誰かに拒絶されないようにと、怯えながら暮らさないといけません。

しかし、真実はそうではない、と。

「拒絶していたのは、私だった」

そうであれば、それを自分がやめることができます。

これを、自分軸と呼ぶこともできますし、アカウンタビリティという表現をしたりします。

心理学におけるアカウンタビリティの法則

心理学におけるアカウンタビリティとは、すべてのものごとに主体性を持つ、というほどの意味です。

それは広い意味で、自分を大切にすることであり、自分を愛することの一部です。

誰かのせいにすることをやめる、と表現することもできるでしょう。

「誰かのせいにする=他責」は非常に楽で、蜜の味がしますが笑、それを続けていると、大きな問題が根を張ります。

すなわち、被害者の立場に自分を置くことによって、意識的にせよ無意識的にせよ、相手を加害者にしてしまう、という問題です。

「あなたが拒絶した(だから、あなたが悪い)」

という意識は、ずっと相手を責め続けます。

それが必要なプロセスの場合も、もちろんあります。

誰かのせいにしないと、自分の心が保てないくらい、傷ついていたとき。

「そうせざるを得なかった」としか、言えないと思います。

けれども、ずっとそれを続けると、相手を責めることの罪悪感が、自分を蝕みはじめます。

これが、キツいんですね。

誰かを責め続けられるほど、私たちの心は強くないようです。

アカウンタビリティを持つことは、自分に主体性を取り戻してくれます

言い換えれば、自分の感情に責任を持つ、とも言えます。

自分の感情を扱えるのは、自分だけであることを理解できると、相手に自分の感情を処理することを求めなくて済むようになります。

そして、相手を加害者にして責める罪悪感から解放されるという、極上の恩恵が与えれるのです。

とはいえ、他責や被害者の立場は、なかなか手放しづらいですけどね笑

「拒絶」を例に、そんな世界もあるんだと知り、ゆっくり、ゆっくりいきましょう。

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